ニーチェ、その2、ルサンチマンで神は死んだのか (No.1323 12/02/28)

神は人間を幸福な、有閑な、無垢な、不死のものとして創造した。ところが私たちの現実の生は虚偽の、堕落した罪深い生存であり、罰を受けた生存である。・・・人類はアダム以来現今にいたるまで異常な状態のうちでながらえてきた。神がおのれの一人子を、この異常な状態を終わらせるために、アダムの罪責のつぐないのためにさしだした。生の自然的な性格は呪いである。・・・最も信心ある者もここ地上では最も信心ない者と同じく不幸なのである。
フリードリッヒ ・ニーチェ、権力への意志、224


d0151247_22584312.jpg 神は天地創造したとき、自ら創造した非造物を「すべて良し」(創世記1:31)としていた。だが、ニーチェから見れば現実の生は虚偽、堕落した罪深い罰を受けた生であり、とても「すべて良し」などと言えるものではない。人間の現実は「呪われて」いるとしか思えないのである。その惨状を救うために、神は一人子(イエス・キリスト)を世に送り出した。しかし、それで何が変わったというのか。「最も信心ある者もここ地上では最も信心ない者と同じく不幸」であり続け、何も変わってはいない。人間は堕落した罪深い存在のまま、地獄の苦しみを味わい続けているのである。
 ニーチェはキリスト教の牧師の息子として生まれながら、キリスト教を痛烈に批判する。彼の最晩年の遺稿、「権力への意志」ではこれでもかというくらいキリスト教への批判を書き綴っている。「私たちの罪のために死んだ神、信仰による救い、死後の復活、これらはすべて本来のキリスト教を偽造したものであり、その責任はあの有害きわまるつむじ曲がり、パウロに帰せなければならない」(同、169)と言って使徒パウロをもボロクソにこき下ろしているのである。ニーチェにとってキリスト教とは弱き人間がでっち上げたインチキ以外の何ものでもないと映るのである。
 人はか弱く、心細い存在である。それを神という概念を偽造して、「自分は救われた」と思わせようとしているという。しかも大多数の人はその欺瞞に気づいてもいない。ニーチェはこの状態をしばしば「ルサンチマン 」という言葉で表現する。これは ressentiment というフランス語で、被支配者である弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいる複雑な心理状態を意味するニーチェ独特の言葉である。力のない弱い者が、能力のある強いものをねたみ恨みつつ、腹黒い怨恨の思いを隠して愛とか同情といった道徳を語ることがルサンチマンである。
 キリスト教の中にはそうしたルサンチマンによる偽善があるとニーチェは断罪する。キリスト教とは自分たちを越えた能力のある者を排除することで「群れ」を守ろうとする「弱者」の主張である。だが、そのことによって本来なら人が力強く生きていこうとする主体性が否定され、誰もが同じ没個性的に生きる群れとなってしまうのである。
 そうした弱者に同情し哀れみを感じることは、人間の弱さのあらわれであり、人間にとって本来的な「生」の力強さを削ぐことになる。弱者に同情するキリスト教は、まさにそうした汚らわしい畜生の生き方、「畜群本能」から生じる「奴隷道徳」の押しつけでしかない。弱者にすぎない人間が超越者である神を信仰するのは、まさに自らの奴隷状態を慰めることに他ならないのだ。だからニーチェは「神は死んだ」と宣言するのである。

以下明日に続く。
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by Weltgeist | 2012-02-28 23:28


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