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虫けらたちの命 (No.1244 11/12/03)

 ちょっと早いが、まもなく赤穂浪士が吉良邸討ち入りをした12月14日を迎える。忠臣蔵として知られるこの事件は江戸の庶民を驚かせ、数々の後物語を生んでいる。浪士たちは14日未明(元禄15年12月14日は西暦に直すと、1703年1月30日)雪が降ってたいへん寒い朝に吉良邸を襲い、吉良上野介の首をはねて主君の仇を討った。その代償は全員切腹。遺体はご存じの通り泉岳寺に埋葬された。
 世間を騒がせ、幕府の安泰を乱したのだから、切腹は覚悟の上でのことだろう。現代に住む我々が驚くのは自分の命を賭しても主君の恨みを晴らそうとした武士道の精神構造である。かりに自分の会社の社長、あるいはCEOが、屈辱的な辱めを受けたとして、その恨みを晴らすために自分の命を差し出す社員がいるだろうか。ここには現代人に理解不能な強烈な倫理観というか、人生観がある。武士とはまことにすごい人達だと思う。
 しかし、数量的に考えると、この仇討ちは割の悪いものである。吉良上野介の命と引き替えに47人中46人が切腹している。命を1対46で数えたとすれば、赤穂浪士の大損である。西洋の決闘のように、1対1でピストルを撃ちあうなんてことはできなかったのだろうか。
 というより主君一人の命は46人分でイーブンと考えていたのだろう。これは損得勘定ではない。美学、それも悪しき美学の問題である。天皇陛下万歳と言って死んでいった神風特攻隊の兵士たちや、イスラム自爆テロで自らの命をアラーの神にささげたテロリストには、自分の命など敬愛する人に比べれば虫けら同然、それをささげることで虫けらの命も輝くと信じる間違った美学が根底にあるのだ。
 命は自分が信じることの価値観で比べられ、それが殉死を正当化する。だが、命の尊さはどれも同じではないだろうか。天皇が一番で自分の命は虫けら程度の価値と考えるのは間違いだ。どんな人の命も同じように尊く、区別はないはずだ。浪士の討ち入りで吉良家側の死傷者は89人もあったという。ものの数にも数えられなかったこれらの人はまさに犬死にであった。
 我々は無意識的に命の価値について線引きをしている。敵の命など何の価値もないから殺すのが当然という発想もここから出てくる。自爆テロで無関係な人が無差別に殺される。そしてそれを何の疑いもなく肯定する危険さ。我々はここでもう一度、「命とは何か」ということを真剣に考え直す必要があるだろう。
 命とは今ここに生きているという厳然たる事実である。どんな形でもいい。いままさにこの瞬間に生きている。その事実の前では、すべての条件、差異は消滅する。主君も平民も、大金持ちも貧乏人もない。今にも死出の道に旅立とうとしている重病の人であっても、なお今生きていれば、この地球の大気を吸って呼吸している。命あるものはすべてが等しく尊いのだ。それが分かれば主君の仇を討つなんておろかなことはやらなかったろう。
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命の大切さは人間だけのものではない。どんな生き物の命も同じように大切である。寒い冬を前にして、このシジミチョウは、もうまもなく自らの役割が終わり、この世から消えていくことを知っているだろう。ボロボロにすり切れた翅を冬のわずかな陽光の中に拡げ、最後の命を静かに燃焼し尽くしていく様が悲しいまでに美しく見えた。
by Weltgeist | 2011-12-03 22:35


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