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弱き者が頼る神様の危うさ (No.1218 11/11/07)

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 以前、ある人から「いいお不動様があるからあなたも祈願して幸運を呼び込んだらどうか」と勧められたことがある。**という新興宗教で、「*****とお題目を唱えれば家内安全、商売繁盛まちがいなし」と言って小生をその集団に引き込もうとするお誘いである。その人はこれまで色々な不幸が続き、病気にもなった。しかし、そのお不動様を拝んだら、一気にそれらが直った、だからあなたもぜひどうぞと、とくとくとして小生を口説こうとしているのである。
 ありがたい仏像や御札を拝めば病気はたちどころに治ります。あるいは、幸運を呼び込む**を買えば、お金持ちになりますよ、と言った誘惑に日本人は弱い。とくに判断力が鈍った年寄りとか、病気や仕事に行き詰まった困窮している人には溺れる者の藁に映り、しがみつきたくなる。しかし、**を拝んだら本当に病気がなおったり、お金ががっぽがっぽ入ってくるなら、誰だって拝む。
 そんなうまい話は絶対にないと分かっているにもかかわらず、その勧誘にのってしまう人が後を絶たないのはなぜだろうか。分からないのは高額のお布施を払ってありがたい御札、ご本尊様を購入し、一心不乱にそれを拝む人がいることだ。お布施が多いほど信仰心が厚いと思っているのである。
 拝む行為そのものが悪いこととは思わない。お布施の多寡で気持ちが左右されるような「最低の神様」を礼拝する気持ちがわからないのだ。素朴に神様に感謝し、あなたに帰依しますと拝むだけで十分なはずなのに、拝む方でもお金を出す代わりに見返りを要求している。これだけお布施を払ったのだからそれなりのことをしてくださいと神様に要求しているのである。そんな不遜な要求を受け入れる神様などロクでもないものと思うのだが、盲信している人にはこれが見えない。
 信じるとは、理性が及ばない世界を信じることである。だから理屈ではない。他の人が「理性的に考えて」馬鹿げて見えることが、信じている人には通用しない。ここに信仰の原点がある。だから、こうしたことはすべて自己責任のことにならざるを得ない。我々から見て危ないな、と思えることでも本人が信じ、それで「幸せ」と感じているなら、それは仕方がないことで、我々がとやかく言うことではないのである。
by Weltgeist | 2011-11-07 23:49


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