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三陸海岸の思い出 (No.1024 11/04/06)

 若い頃の小生は手に負えない無鉄砲な子供で、1958(昭和33)年7月、当時まだ15歳、高校一年生であったときに、とんでもない長旅を一人でやったことがある。行き先は岩手県九戸郡野田村。岩手県の一番北側、青森県との県境にある三陸海岸に面した村である。地元の人には申し訳ないが、当時、この付近は「日本のチベット」と呼ばれる秘境中の秘境で、普通の人なら絶対行くことのない超僻地であった。
 高校一年生の子供が何でそんな所に行ったのかというと、実はその数年前に野田村で「チョウセンアカシジミ」と呼ばれる新種の蝶が見つかったからだ。すでに日本中の蝶は調べ尽くされていて、未知な新種の発見などあり得ないと思われていた時代に、三陸でチョウセンアカシジミが発見されたのだ。まだ新種が見つかるほど未開な場所が三陸に残っていたということは、たいへんな驚きだったのである。
 「日本のチベット」と呼ばれる未知な場所に、人に知られていない新種の蝶がいる。野田村の新発見は小生にものすごい衝撃を与え、何としてでも自分でそれを採集したいと思い始めたのである。しかし、野田村とは岩手県のどこにあるのか。どう行ったらいいのか、行き方も皆目分からない。それを小生はただ行きたいという思いに駆られて、しぶとく調べ上げ、野田村で蝶を集めている青年とのコンタクトにも成功した。彼とは何度か手紙のやりとりをした後、ついに1958年の7月にたった一人で上野駅から夜行列車に乗って、野田村を目指す無謀な旅を決行したのである。もちろん、親にも学校の先生にも内緒。行き先も「八ヶ岳」と嘘をついての旅だった。
 その時選んだルートはひどい回り道のものだった。東北本線で一旦青森県八戸まで北上し、そこから今度は八戸線に乗り換えて終点の岩手県久慈まで三陸海岸沿いに南下していく。久慈から野田村には一日数本のバスがあることも分かった。効率の悪い回り道ルートだがこれしか野田村に行き着く手段は見つけられないのである。少ないお小遣いを溜めて買った学割の切符で夜行列車の人となった小生はずいぶん場違いな子供にみえたことだろう。それでも丸2日かけて野田村に到着したのである。
 未知な蝶を採りたい一心だけでこんな遠くまで来てしまった自分に心細さも感じたが、そのとき見た三陸海岸の美しさは素晴らしかった。また、初めて採ったチョウセンアカシジミがオレンジ色に輝くのを見て、苦労してここまで来たかいがあったと力づけられた。その思い出は今も懐かしく記憶に残っている。日本の中にもこんなきれいな場所があるのだと子供ながらに感激したものである。その野田村も今回の津波でやられたようだ。
 今日現在37人が亡くなり、400人の方が避難生活をしているという。他の地域に比べれば被害は少ない方なので、野田村のことはあまり報道されない。詳しいことはよく分からないが、あのとき小生を案内してくれた野田村の蝶仲間はどうしたろうかと考えると心が痛む。彼の名前は失念したが、小生より5歳ほど年上だったから元気なら75歳くらいで、まだ蝶の収集をやっているのではないかと思う。
 野田村には58年に行っただけで、その後は行っていないが、釣りに熱中してからは、もう少し南の大槌、釜石、陸前高田などにはほぼ毎年のように訪れている。何度も泊まったことのある民宿のおばちゃんたちは無事だろうか。まるで戦後の焼け野原みたいに何もかも流されてしまった町の姿を報道で見ると信じられない気持ちになる。
 50年前、好奇心と冒険心でいっぱいだった小生の若き姿と、入り組んだ三陸海岸の美しい風景、チョウセンアカシジミの姿が今回の震災で走馬燈のように思い出される。願わくば野田村の蝶仲間も、そしていまも生息するであろうチョウセンアカシジミが無事であることを祈っている。
三陸海岸の思い出 (No.1024 11/04/06)_d0151247_20431052.jpg

by weltgeist | 2011-04-06 23:02


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