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マルティン・ハイデガー 「野の道」 (No.1016 11/03/29)

野の道の呼び声は、開かれた自由なるものを愛する気質を目覚めさせてくれる。苦悩さえもなお恵まれた箇所において、究極の清朗さの中へと跳躍する気質を目覚めさせてくれる。・・
野の道の徑の上で、冬の嵐と収穫の日が行き合い、早春の生々とした興奮と秋の沈静な死去とが出会ひ、幼年の戯れと老年の知恵とが互いに眺め合う。すべては一つに響き合い、そのこだまを野の道は、黙しつつかしこへと自ら運び行く。そしてその一つの響きの中において、すべては明るく、晴れやかになるのである。
マルティン・ハイデガー 「野の道」 高坂正顕、辻村公一 共訳、理想社・ハイデガー選集第8巻、PP.10-11
 

 小生が家の前の山を散歩で歩くとき、いつも思い浮かぶのはハイデガーのこの言葉だ。あの恐ろしく難解な文章ゆえに、読む人を絶望のなかに引き込む「存在と時間」を書いた同じ人とは思えないほどやさしい言葉が「野の道 Der Feldweg / 1953年」の中にはつづられている。「野の道」で語られるのは、難しい哲学ではない。美しい詩と言ってもいいほどなハイデガーの魂の告白である。
 野の道とは、ドイツ南部を覆う黒い森=シュバルツバルトの中に刻まれた杣(そま)道のことである。ハイデガーはシュバルツバルトの道を歩きながら、自分の哲学を考えたとしばしば語っている。主著・存在と時間の冒頭にはわざわざ「バーデン州、トートナウベルクのシュバルツバルトにて」と書いてあるし、1935年から46年までの最も重要な6つの論文は「森の道 Holzwege 」と題する本にまとめているほどである。シュバルツバルトの森にある道を散策することが彼の思索の重要な場であったことがうかがえる。
 野の道を歩いていると、森が語りかける「一つの言葉」が聞こえてくるとハイデガーは言っている。それは街の中では決して聞こえない。森の細い杣道を歩いているときだけ聞こえてくる言葉である。しかも、森が語る言葉は聞く者自身の心が開かれていなければ聞こえない。聞き取る側の人間には、それを受け入れるだけの「長きにわたる成熟が必要」(P.8 ) だと言う。誰にでも聞こえるものではないのだ。
 「人間は自らの計画によって世界の秩序をてらそうと試みている。しかし、野の道の呼び声に従って自らを整えない限り、その試みは徒労である。現代人はますます野の道の言葉に耳を閉じようとする。そうした危険が迫りつつある。彼らの耳に心地よく響くのはただ機械の騒音のみであり、機械を彼らの神の声と見なすのである。かくて人間の心は散乱し、道は失われる」( P.9 ) のである。
 ハイデガーが野の道で聞くものとは巨大な現代文明を支配する論理とは一線を画するものである。彼は上の文の後で人が機械文明を追求して原子力を利用するまでに至ったことの危険性を指摘している。人は快適な生活をもたらす機械文明に大いなる魅力を感じている。だが快適さに頼れば頼るほど森の声を聞き漏らし、道を失っていく。人はこうして故郷を喪失し、虚無の荒野をさ迷うことになるのである。
 ハイデガーが野の道で聞いた言葉とは、彼が長い間考え続けていた「真理(存在)とは何か」という問いへの解答であった。その声を聞くとき、すべては明るく輝き、晴れやかになるというから、ハイデガーは明確な回答を森から得たのだろう。小生もそれに習って「我がシュバルツバルト」である前の山を歩き回っているが、残念ながらその解答を得るには至っていない。未熟な小生に森はいまだ計り知れない神秘に満ちたままである。
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小生が「おらが街のシュバルツバルト」と勝手に呼んでいる前の山には、こんな花が咲き、今年羽化した早春の蝶・ミヤマセセリが飛び交っていた。福島では危機的状況が続いているというのに、春はそんなことはお構いなしに着実にやって来ているようだ。
by weltgeist | 2011-03-29 23:32


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