先日、3回に分けてヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」について書いたが、大震災のことが気に掛かって何か中途半端な結論で終えてしまった気がしていた。ヘミングウェイの人間観について重要な部分を書いていないと思っていたのだ。しかし、もう「誰がために鐘は鳴る」の書き込みは終えているので、今日は 1938年 に出版された「最初の49短編集」( The First Forty-Nine Stories ) の中に入っている「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」 ( The Short Happy Life of Francis Macomber ) を取り上げて、前回書き漏らした部分の補完をしたい。
「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」は文庫本で50ページくらい、30分もあれば読み切れる短編である。物語は夫婦仲は悪いが表面上は平静を装っている裕福なアメリカ人、フランシス・マコーマーと妻マーゴットがアフリカに猛獣狩りに行く話である。ところがハンティングの途中で仕留め損ねた手負いのライオンに襲われ、フランシスが逃げだしてしまう。そんな臆病な夫を見た妻は、ガイドの男と密通。それがバレても夫を「臆病者だから」と罵倒するのだが、彼女は金づるである夫、フランシスとは別れられない。だが、そのあとの水牛狩りでフランシスは見違えるほど勇敢に戦い、臆病心を克服していく。勇敢に戦った彼はこの上ない幸福感に満たされていくのである。 小説は、この後驚くべきどんでん返しをし、さすがヘミングウェイと思わせる出来で終わるのだが、これから読む読者のためにもエンディングを詳しくは書かない。ここで小生が取り上げたいのはフランシスが勇敢になることで、幸福感に満たされたことだ。ヘミングウェイが人間の幸福とは「勇敢に戦うこと」と信じていることがここに読み取れるのである。 ヘミングウェイの小説では「卑怯者 Coward 」とか「臆病者 Cowardice 」という言葉がしばしば語られている。とくにこの短編小説での大きなテーマが臆病と勇敢である。フランシスは、最初手負いのライオンが飛びかかってきたとき、恐怖心から逃げ出した。我々の感覚から見ればライオンが襲ってくれば逃げるのは当然だが、ヘミングウェイはこれが耐えられない屈辱と思っているのである。だが、なぜ臆病であることがそんなに屈辱なのだろうか。妻からもまるで駄目男のレッテルを貼られて、落ち込んでしまうフランシスの態度が我々にはよく分からない。その秘密を解く鍵はヘミングウェイの少年時代にある。 ヘミングウェイはオペラ歌手だった母親から子供ころ女の子のように育てられたという。しかもそれを父親が止めなかった。彼は大きくなって自分が女々しい男ではないかという不安にかられ、これが後に激しい克己主義と過剰なほどの男らしさへの憧れの動機となったと中島顕治氏は「ヘミングウェイの考え方と生き方 」の中で書いている。(弓書房 P.27 ) 彼は自分を女々しい臆病者に育てた母親を憎み、彼女をメス犬 bitch と公然と呼んでいた。母親の臨終が近いのを知っていても会いにも行かなかったほどだったという。 こうした臆病者とか卑怯者という言葉は、古きアメリカ人が好んで使っていた。昔の西部劇では臆病者はまるで、人間のくずのように見られていた。人を背後から撃つのは卑怯者のやることで、堂々と正面から撃ちあうのが勇敢な人という、まさに典型的な西部劇の主人公のような考え方をヘミングウェイは持っていたのである。 ヘミングウェイは戦いの人であるが、その勝敗については無関心のところがある。誰がために鐘は鳴るで、スペイン内戦に参加した主人公は戦いの勝敗には関心がないようにも見える。自分が戦いの中に飛び込んでいること自体に意義があり、そこに幸せがあると思っているのだ。ロバート・ジョーダンは負け戦にもかかわらず、死ぬ間際にこうした戦いに参加できた「自分は幸運者だ。こんなにいい生涯をおくることができたのだから」と語っている。 戦いにおいて勇敢であること、それが人間の幸福であるとヘミングウェイは信じていたのだろう。猛獣狩りでも、スペイン内戦の中でも、さらには巨大なカジキと戦うカリブ海の老人漁師にしても、みな戦いの中でしか自己の存在の喜びを感じられなかった。勇敢に戦うことこそ生きる証なのだ。フランシス・マコーマーは、臆病者のレッテルを最後の戦いのなかで剥がし、勇敢に戦ったことで幸福な短い生涯を終えるのである。
by weltgeist
| 2011-03-24 22:40
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