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山は乗り越えられる (No.931 10/12/27)

険しい山岳はその向こうに行こうとする旅行者にとっては障害であるが、登山家にとっては絶好の素材である。事物が示すもろもろの抵抗は自由にとっては一つの危険であるどころか、かえって自由が自由として出現することを自由に対して許すものでしかない。
ジャン・ポール サルトル、「存在と無」第4部、第1章、Ⅱ。(松浪信三郎訳)


 昨日は年賀状作りで、フィギュアスケート全日本での浅田真央選手の活躍ぶりを見ることができなかった。おかげで何とか年賀状はできたが、浅田選手の二位入賞は今日のニュースではじめて知った。
 オリンピックで銀メダルをとったあと、かってないスランプに陥り、このままでは駄目になって世代交代していくかもしれないと気をもんでいたが、見事に戻ってこれたのは彼女自身の努力のたまものだろう。テレビのインタビューで、「とりあえずホッとしました。やっとこの大きな山をひとつ越えたと思うので、自分もすごく強くなれたと思います」と語っていたのが印象的だった。 
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 浅田選手の復活は、様々なスランプに陥っている人に、大いなる勇気を与えてくれたのではないだろうか。越えられないほどの高さでそびえる山を前にして、「自分には登れない」と諦めるのではなく、必ず乗り越えられるのだと信じてそれに挑む。彼女はこれまでの不調にあっても、より安易な道を選ばなかった。「ラストチャンスに自分は強いということを信じて(トリプルアクセル)を跳んでみました」と言って、あえて難しい道にチャレンジしたことを語っている。そうして高い山を乗り越えて、さらに強い自分を見つけたのだ。
 冒頭にあげた文章でサルトルが言うように、イージーに向こう側に行きたい旅行者にとって山は障害でしかない。しかし、それに真正面から挑む登山家にとっては自分を高める絶好の場となるのだ。これまで自分が生きていくうえで立ちはだかってきた数々の障害物は、あとから見れば自分をより高めてくれる一里塚のようなものである。そうした一里塚を一歩一歩踏み越えて行った人だけが高みに登り詰めることができるのだ。浅田選手はそのことを実感していることだろう。
 誰もが長い人生において苦しいことに出会う。人生に平坦な道などないのだ。ときにはあまりに悲惨すぎる状況に直面して絶望するかもしれない。無神論者であるサルトルでさえ「事物が示すもろもろの抵抗は自由にとっては一つの危険であるどころか、かえって自由が自由として出現する」根拠であると、まるでキリスト教宣教師のような言い方をして「人の前に立ちはだかる山」の意味を肯定的にとらえている。それは結果として人をより豊かで深みのある者に育てる「試練」と言っているのだ。
 どんなに苦しくてもきっと抜け出せる道はある。人が乗り越えられない山はないのだ。むしろ山があるから我々は成長できる。我々はそう信じて頑張るしかないのである。
by weltgeist | 2010-12-27 22:42


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