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サルトル没後30年で思うこと、その2、吐き気と即自存在 (No.870 10/10/27)

 サルトルの代表的小説「嘔吐」の主人公、アントワーヌ・ロカンタンは、街路樹として植えられていたマロニエを見て、吐き気をもよおす。マロニエの根から出たゴツゴツしたコブを見て、そこに「存在」の真の姿を見たからである。それは無定形で、汚くて、ねばねばした粘着質のいかにも吐き気を催すような嫌悪感を感じるものだった。その時の様子を次のように書いている。
存在するとはたんにそこにあることだ。・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・それは嫌悪すべきものだった。・・私は叫んだ、”なんて汚いんだ。なんて汚いんだ”。私はこのべとついた汚物をふりおとすために体をゆすった。けれども汚物はしっかりしていた。何トンもの存在が無限にそこにあった。私はこのはかりしれぬ倦怠の底で息のつまる思いだった。」(嘔吐、白井浩司訳)と言って吐き気を催すのである。
サルトル没後30年で思うこと、その2、吐き気と即自存在 (No.870 10/10/27)_d0151247_2226179.jpg だが、どうしてロカンタンはマロニエを見て吐き気を催したのだろうか。実はそこにサルトル独特の「存在」についての考え方が語られているのである。かって、哲学において「存在」とは真理と同じ意味を持つ重要なキーワードとして語られてきた。それは絶対的な真理と同じ意味を持って、過去の哲学者たちが研究してきた崇高なものであった。例えば、サルトルが大きな影響を受けたハイデガーの「存在と時間」もメインテーマは「存在」の意味を問うことであった。科学が発達した現代においては人間の体の構造とか細胞の働きといった内部原理まで徹底的に解明されつつある。しかし、それでは人が「あること、つまり”存在する”とはどのようなことなのか」となると、それはこれまで問われて来なかった。ハイデガーはこのこと、すなわち「存在」の意味を問うことこそが哲学の重要な課題として、存在と時間を書いたのである。
 ところが、サルトルはそうした哲学の伝統であった存在の崇高性をひっくり返してしまう。「存在とはある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。」(存在と無、松浪信三郎訳、 P.34 ) それ以上のものではないというのだ。存在とはただ、「ある」だけであって、他の何か「あらぬもの」、例えば神秘的な真理とか、神、絶対者といったものとは無関係にそのまま「自己自身とぴったり粘着し」(P.32) た強固なかたまりのようなもので完結している。それは周囲に無数に「存在している」のである。
 私の周囲を見渡せばすべて存在に取り囲まれている。それは恐ろしいばかりに圧倒的で私を押しつぶしそうに感じる。しかし、それではこの私を顧みるとどうだろうか。存在は「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬ存在」であった。絶対に変わらない不動で強固なものであったはずである。ところが「私という存在」はどうかと見ると「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものである存在」であると、いつも変わってつかみどころのないものであることが明らかになってくるのだ。
 言葉の遊びのようで、ややっこしいが、落ち着いて考えるとその意味の違いが分かってくる。つまり私は「たんにある」という存在では「あらぬ」存在、つまり自分を超越した「実存」をしていることに気がつくのである。私はただあるだけの存在では「」い。「」を分泌しつつ、現在「ある状態」を否定し、それを超越しているの存在なのだ。絶えず今ある存在を無化しつつ未来に向かって自己を切り開いている、そういう「実存している存在」、対自存在なのである。
 だから、いつまでも同一の状態のまま強固なかたまりでとどまっている「存在」(即自存在)は、ロカンタンにとって耐え難きものと映るのである。

以下明日に続く。

サルトル没後30年で思うこと、その2、吐き気と即自存在 (No.870 10/10/27)_d0151247_2127527.jpg「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」( On ne naît pas femme:on le devient. )という名言を言い、サルトルの生涯の伴侶となったシモーヌ・ド・ボーボワール(1908-1986年)とスエーデンで撮ったツーショット。1954年。
by weltgeist | 2010-10-27 22:34


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