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サルトル没後30年で思うこと、その1 (No.869 10/10/26)

 エッ、今日はもう10月26日。つい先日10月に入ったばかりと思ったのに月日の経つのが早すぎる。実は10月26日は我が妻の誕生日なのだが、何のお祝いも準備していなかった。そして、6日後の31日は小生の誕生日と、目まぐるしく年月が過ぎて、アッというまに歳をとっていく。若い頃の誕生日は目出たいが、この歳になってだとかえって迷惑である。願うことなら時間の流れが青年時代のまま止まってほしいくらいだ。
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 と思っていたら今年はサルトルが死んで30年の記念の年なのだという。こちらの時間経過も早すぎる。彼が死んだのは1980年の4月である。晩年は元気がなくなったが、60年代のサルトルの人気はすごかった。こ生意気な知識人と称する連中は「サルトルを知らずばインテリにあらず」というような雰囲気が漂っていて、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。しかし、それから30年、すっかり彼のことは忘れ去られたというか、過去の人になってしまって、没後30年を迎えたのである。
 それで、今日は思いつくがままにサルトルのことを書いてみたい。
 しかし、その前に現代哲学の状況を見ると、その衰退ぶりは目を覆うものがある。現代では優れた科学者は何人もいるというのに、傑出した哲学者は一人として思い浮かばない。哲学は実はサルトルを頂点にして、ギリシャ以来の歩みを止めてしまっているのだ。
サルトル没後30年で思うこと、その1 (No.869 10/10/26)_d0151247_21415246.jpg サルトルがハイデガーと並んで20世紀を代表する哲学者であることは疑いもないが、サルトルを最後に現代哲学は迷走状態となり、いまや死にかかった学問にまでなりつつある。それはサルトルが哲学の塔をあまりに高いところまで仕上げてしまったたからではないかと思う。現代哲学にはまだまだ巨星がいるという方もいるだろうが、ギリシャ以来の「哲学の伝統」、すなわち「形而上学(けいじじょうがく)」を引き継いだのはサルトルが最後であると思っている。彼の主著「存在と無」を小生は形而上学とみなしているからだ。
 サルトルは哲学者であると同時に文学者でもあった。彼は哲学論文を発表する前に多くの小説や戯曲を出している。1938年には小説「嘔吐」を出版して名声を博し、それらの功績から1964年にノーベル文学賞に選ばれたが、自分が神格化されることを嫌って受賞を拒否している。ノーベル賞が欲しくてたまらない人たちからみれば信じられないことをしでかす人物だったのである。
 彼のとんでもなさは、主著「存在と無」を読むと分かる。論理の進め方が極めて明晰で、ピシッとしているのに驚く。他の哲学者、例えば悪文で有名なカントや、次々と自分なりの造語を繰り出すハイデガーの論文など、めまいがするほど難解なひどい文章である。それがサルトルの文章では読んでいてすんなりと納得できてしまう。それは彼が文学者であったからだろうが、それ以上に彼の頭脳が極めて明晰判明であるからだ。読んでいて、「この人の頭の構造はどうなっているのか知りたい」と思うほど切れ味のある文章は、分かりやすくて気持ちがいい。
 だが、今日はサルトルのことは「さわり」程度にとどめておき、彼が言った有名な言葉、「実存は本質に先立つ」について、少しだけ書いておこう。彼は次のように書いている。
「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものである。実存主義が考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何者でもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間はみずから造ったところのものになるのである。」(人文書院、サルトル全集、実存主義とは何か、伊吹武彦訳)  
 要するに人間とは何かという本質は実存の前には存在しない。人間以外の物、たとえばペーパーナイフは、職人が頭の中に設計図をひき、職人の考えたもの(本質)の通りに造り出されるのだが、人間だけはそうした本質には縛られていない。まったく白紙の中にみずからが選び造り出した道を歩んでいく自由な存在だ、というのである。
 これについては明日以降、書いてみたい。なお、「実存は本質に先立つ」については以前No.282で書いているのでこちらも参照して欲しい。

以下明日に続く。

by weltgeist | 2010-10-26 21:36


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