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友達とは何だろうか (721 10/05/10)

 皆さんは親友と呼べる人が何人いるだろうか。いや、親友というとあまりに限定的すぎるので「友達」という言葉で呼べる人が何人くらいいますか、と聞いてみたい。恐らく誰もが親しい人を何人か候補に思い浮かべることだろう。それは何もしょっちゅう顔を合わせている人でなくても差し支えない。数十年合わない人でも、気持ち的に「友達」と思っていれば、いつまでも友達であり続けるのである。
 もちろん、小生にも大切な友達は何人もいる。しかし、それはこちら側だけの勝手な思いこみであって、相手は「あんな奴友達でも何でもない」と思っているかもしれない。だが、それはそれでいいと考えている。相手が嫌っているところを無視して「俺の友達になれ」と強引に言ったところで、どうにもならない。友達とは、強制されて出来るものではないからである。100%の人に好かれるなんてことはしょせん不可能なのだ。
 友達関係がぎくしゃくするのは「俺はお前を親友と思っているのだから、お前も同じように思え」と密かに相手に望むことだ。ところが、相手は必ずしも期待したように応えてくれない。そうなると、応えない相手に失望し、それが度々重なると裏切られた気持ちになってしまう。友への思いは憎しみに反転し、反目、けんかとなってしまうきっかけともなるのだ。
 世の中には次から次へと「友達」を取り替えていく人がいる。最初はものすごく仲が良かったのが、しばらくするとその人とはけんか別れして、全く別な人を「友達」に取り替えている。それでよく見ると以前の「友達」と非常に似た人と付き合っているのである。
 彼は選んだ「友達」を、自分と別な独立した人格を持った人と認めるのではなく、自分の影武者と見ているにすぎないのである。自分の好きなように行動してくれる人を選んでいるだけなのだ。そんなものは真の友情関係とはなり得ない。利己主義で成り立つ結びつきだから、いつ破綻してもおかしくないほど脆いものとなるだろう。だからしょっちゅう「古い友達」とけんかし、「新しい友達」を選んでいくしかないのである。彼に「あなたが心の底から憎い人がどのくらいいますか」と聞いてみるがいい。それこそほうきで掃いてすてるほどの名前を言い続けることだろう。愛情の代わりに憎しみのエゴイズムが友情という仮面の下に隠されているのである。
 自分とは別な考えを持った「独立した人格」であることを「友人」の中に認めない限り、真の友情は生まれないと思う。彼が求めるのは自分の好む通りに行動してくれる人間である。それは相手の人格の無視であり、奴隷化にすぎない。現実にそんな期待に100%応えてくれる人間などいるわけがないから、最終的には誰からも相手にされなくなって、「人嫌い」になるしかないのだ。人嫌いの多くはそうした他人への期待心が強すぎるからではないかと思うのである。
 親友とは自分の方から真心を指し示すことで与えられるものだ。決して相手に要求するものではない。自分から真心を示せば相手も真心を開いてくれる。相手に依存するのではなく、独立、完成した人格同士がお互いを認め合って、本音で接し合うところに生じるものなのだ。相手のことを思いやる気持ちが欠如した人には真の「親友」は現れない。
 しかし、これはたいへん難しいことである。小生、今でもはらわたが煮えくりかえるくらい嫌な奴と思う人がいる。そうした人にまで真心で接したいとはどうしても思えないのだ。理想と現実のギャップに悩みつつ、人間の駄目さ加減を痛感しているのである。
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by weltgeist | 2010-05-10 22:58


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