カラマーゾフの兄弟、その4、自由と実存 (No.702 10/04/13)

d0151247_20282521.jpg カラマーゾフの兄弟の次男イワンが三男アリョーシャに語る大審問官の話は、16世紀のスペインに気まぐれで再臨してきたキリストに対して、カソリックの大僧正である大審問官が「今更この世の中に戻ってきても迷惑だ」とキリストに文句を言う話であった。マタイ福音書4:4で言われた「人はパンのみで生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉で生きる」と言ったことをとらえて、大審問官は人は神からパンをもらう代わりに自由をもらったと解釈する。しかし、この自由が人間には荷が重すぎるのだ。自由のない奴隷のような生活でも、パンがもらえるならマシだと言うのである。奴隷には自由の不安がないからだ。ところが、キリストはそれをしなかった。大審問官によれば、キリストはそのことで「人間を幸福にする唯一の方法をしりぞけた」ことになると言うのである。
 「人間や人間社会にとって自由ほどたえがたいものは他にないからだ。このまっ裸な焼け野原の石を見ろ。もし、おまえ(キリスト)がこの石をパンにすることができたら、全人類は感謝の念に燃えながら、おとなしい羊の群れのようにおまえのあとを追うて走るであろう」。人はエデンの園で動物と変わらぬ暮らしをしていた時は何の不安もなかった。それが禁断の木の実を食べて楽園を追放されて以来、ずっと不安で苦しい人生を歩むことになった。悪魔が石をパンに変えろと言ったのは、その状況を変える絶好のチャンスだったのに、キリストはそれを退けたと大審問官が考えているのである。
 大審問官によれば神は人間に自由を与えた。しかし、それは耐え難いものだ、ということになる。この考えに対して、すぐ思い浮かぶのはサルトルとニーチェだ。実存は本質に先立つ、それ故人間は自由だ。しかし、その自由を得たことで人間は自らの人生を自らの責任において切り開いていかなければならない。それは極めて苦痛なことで、人間は自由という名の刑に処せられているとサルトルは言う。逆にニーチェは「神は死んだ」と宣言することで、神の支えを失って自由になった人にはニヒリズムが重くのしかかってくることになる。神の死が虚しい人生の永劫回帰として現前してくると考えているのである。
 しかし、イワンの大審問官はサルトルともニーチェとも違う思想である。決定的な違いは「人間の自由は神によって与えられたもの、神が保証したもの」という点だ。サルトルの自由は最初から神の支えなど必要なかったし、ニーチェは神が支えていたのに、それが死んだ(つまり人々が神を信じなくなった)ために、人間はニヒリズムにならざるを得なくなったことである。しかし、イワン、つまりはドストエフスキーが言うのは、人間は神から自由を与えられたことで逆に苦しんでいるということだ。
 だが、これこそ実は人間の本質ではないだろうか。人間は自由だが、それはまた途方もない苦痛を伴うものである。自由とその重圧感、これが人間である限り避けようのない現実なのだ。エデンの園で動物と変わらない生き方をずっと続けることなど出来ない。より人間らしく生きていこうという意志、すなわち自己の実存を全責任において引き受ける決意があるかどうか、このことが大審問官の章で問われているのである。
 大審問官はキリストに「今我々が悩んでいる自由の苦痛をお前はどう責任を取るのか」と迫る。それに対して、キリストは一言も言葉を発せず、大審問官に口づけするところで、大審問官の劇詩は終わる。大審問官へのキリストの接吻。これがイワンの疑問への解答である。この謎めいた解答をどう受け止めるか、作者は我々読者に聞いているのである。だが、今の小生にはこの意味がものすごく良く分かる気がする。
 イワン、いや大審問官はこの世で悲惨な人生を送って悩んでいる無数の人間の代表なのだ。この世はイワンが言う幼児虐待のような悲惨な状況が至るところで見受けられる。それを人類の代表として神に訴えているのだ。しかし、苦悩があるからこそ人間らしい世界も見えてくるのである。神はそうした試練としての世界を我々に与えたのである。だから我々はその中でもがきながら、自らの光明を見つけていくしかない。
 大審問官の問いにキリストが何か言えば、人間に与えた自由を侵すことになる。神自らが人間の自由を否定することになるのだ。キリストは人間の苦しみを見て「頑張れ」と我々を力づけてくれているのである。キリストの接吻を小生とは違った意味で解釈する人もいるだろうが、小生には苦難の道を歩む人間への優しい励ましと思えるのだ。それは「罪と罰」のラスコーリニコフが、シベリアの流刑地で大地に接吻したのと同じ発想である。いや、以前、このブログで取り上げた「貧しき人びと」の中で、苛酷な運命に落とし込められながらも、それを神の意志として引き受けた、あのマカールの寛容と同じ流れのものであると思う。
 無神論者、イワンは大審問官という架空の人物を創作することで、神を否定しようと思いながら、心の底で常に救い主としての神を希求しているのだ。イワンは大審問官の最後で「ぼくはすべては許されていると思う」と言って創作劇の話を終えている。そう、すべてはすでにキリストの十字架上の死で許されているのである。ここにおいてイワンは自らが無神論者と言いながら、すでに神の懐に飛び込んでいると小生は解釈している。そして、イワンの言う人間の苦しみは次のゾシマ長老によってキリスト教的に乗り越えられるのである。

以下明日に続く。
カラマーゾフの兄弟のスレッドを最初から読みたい人はここをクリックしてください。
[PR]
by weltgeist | 2010-04-13 22:09


<< カラマーゾフの兄弟、その5、ロ... カラマーゾフの兄弟、その3、大... >>