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カラマーゾフの兄弟、その3、大審問官 (No.701 10/04/12)

 カラマーゾフの兄弟の核心部である大審問官は次男イワンが作った劇のシナリオである。ここで語られているのは人間の自由と実存の問題だ。しかし、小生が20歳の時読んでまったく意味が分からなかったと前回書いたが、その原因の一つは翻訳者の決定的な誤訳にあったことに今回気づいた。それとこれは作者の意図的なことかも知れないが、キリスト教についての日本人の知識不足が理解しにくさを助長しているのではないかと分かったことである。
 誤訳のことは後でもう一度述べるとして、まずは大審問官の劇詩に戻ると、劇の舞台は16世紀のスペイン、セビリア。ここに突然キリストが再臨してくることで町中が大騒ぎになる。イワンによれば「キリストはただほんの一瞬でもいいからわが子らを訪れたくなって」気まぐれ風に彼の死の1500年後にセビリアに現れるのだ。民衆はすぐにそれがキリストであることに気づき、彼の回りに人が集まる。盲目の人の目が見えるようになり、死んで棺桶に入っていた少女が生き返る奇蹟を行うキリストに人々はますます騒ぎ出す。
 そこに齢(よわい)ほとんど90歳になんなんとする目だけが火花が飛び散るような輝きを持った老人が通りかかる。「ローマ教の大僧正」と書いてあるから、これはカソリックのトップであろう。彼が大審問官である。彼は街を歩くキリストを見て、牢に閉じこめるように部下に命じる。そして、その後牢にいるキリストを一人で訪ねてきて「お前はイエスか」と尋問する。しかし、キリストは一言も言葉を発しない。大審問官は「返事はしないがいい。・・しかし、なぜお前はわしらのじゃまをしに来たのだ」と問いただすが、もちろん返事はない。
 そこで大審問官はこれまで「90年間」自分の腹のなかでくすぶっていた思いをキリストに向かって吐き出すように語り始める。語るのはキリストが死んだ後に残された問題のことである。それは「みんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いまいっさいのことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出てくるのは断然よしてもらいたい」と大僧正としての立場でキリストの再臨が迷惑であることを言う。
 ここまでで奇異に思うのは、もし大審問官がキリスト教徒なら主イエス・キリストの存在は絶対であり、「いまさら出てきて何の用だ」というような口は聞けないことだ。いくらカソリック最高位の法王(教皇)であってもそれは出来ないことである。法王は神の代理人にすぎない。いわば主人である神の意志を民衆に示すだけの「選ばれた人」にすぎないからだ。それが、ここで神=キリストを「おまえ」呼ばわりし、命令口調で語るような無礼をキリスト教徒は絶対やらないだろう。(ロシア正教は知らないが・・)
 だから大審問官はキリスト教徒であると読者が思い込んでこの話を読んでいくと、つまづいてしまう。大審問官はキリスト教徒ではなく、あくまでもイワンが作った「神の代理人」でしかないのだ。キリスト教が当たり前の西洋では当然分かってもらえる前提でドストエフスキーは書いているのだろう。その風土がない日本ではここを注意しておかないとキーポイントを見逃すおそれがある。そして、大審問官は神の存在を認めつつ、またそれを信じない無神論者でもあるという、複雑な心理状況にある人物としてイワン、すなわちドストエフスキーは描いている。このことが、あとの劇の進行で明らかになっていくのである。
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2002年1月1日、カソリックの総本山であるバチカン・サンピエトロ寺院で新年のミサをする前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世を見た。沢山の人が前にいてごま粒くらいの大きさにしか見えないが、白く見える3人の人物の中央が教皇。このミサの後、バルコニーに出て10分ほど何かを話してから、Happy New Year という新年の祝辞を10カ国語くらいで言った。

 教会人にとっていまさらキリストが戻ってくることは、自らの教会組織の崩壊を招くゆゆしき問題であるかもしれない。だが、大審問官はそんな権力維持のような下劣な問題には関わらない。彼はここで人間の自由の問題をキリストに問い正すのである。イエス・キリストがヨルダンから戻って荒れ野で40日間主に祈りを捧げていたとき悪魔に三つの誘惑をされる。これを大審問官は「自滅と虚無の精霊、偉大なる精霊が、荒れ野でおまえにと問答したことがある」という表現で言っている。これはマタイ福音書とルカ福音書のそれぞれ4章で書かれているイエスを陥れるために悪魔が出した3つの誘惑を指したことである。しかし、ここで前に述べたように翻訳者は決定的な誤訳をしている。キリストを誘惑する悪魔を「精霊」と訳しているのだ。ロシア語の原文は分からないが、そもそも精霊という言葉がおかしい。普通は霊との字を使う。そして聖霊はキリスト教では父(主)と子(キリスト)と聖霊がそれぞれ三つでありながら実は同一のものである三位一体を唱えている。悪魔は聖霊ではあり得ないから「精霊」は明らかに誤訳であると思う。小生は現代訳を持っていないから、この部分を他の人はどのように翻訳しているか分からないが、小生が読んだ河出書房版では明らかに間違っていた。これが大審問官の章が分かりにくくしていたのだ。ちなみに「いのちのことば社の新エッセンシャル聖書辞典」によれば「聖霊とは息とか風を意味する(ヘ)ルーアハ」という言葉から来ているという。
 さて、イエスが荒れ野に40日間入って悪魔の三つの誘惑を絶ったのだが、大審問官はその第一の誘惑、すなわち悪魔がやってきて「あなたが神の子なら、この石をパンになるように命じなさい。イエスは答えて言われた。”人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる”」(マタイ福音書 4:3-4)と答え、悪魔の誘惑を絶ったことについて大審問官は非常にユニークな解釈をする。
 彼は次のように言う。「おまえはすべての人間を無条件で自分の前にひざまずかせるため、精霊(誤訳で悪魔)がお前に勧めた唯一絶対の純粋、つまり、地上のパンという御旗をしりぞけた、しかも天上のパンと自由の名をもってしりぞけた。・・・人間はパンさえ与えれば、おまえの足もとにひざまずくのに、それをしりぞけた」「われわれはおまえの名をもって人々に食を与える。しかし、お前の名をもってというのは出まかせにすぎない。そうとも、われわれがいなかったら彼らは永久に食をうることができないのだ。彼らは”わたしどもを奴隷にしてくださってよろしいから、どうぞ食べ物をください”と(下劣な人間どもは)言うに違いがない。自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいもの」だからだ。
 要するに、大審問官は第一の誘惑の解釈で、キリストは人にパンをあげないかわりに自由を与えたというのである。だから「おまえは自分がなにより最も尊重している(人間の)自由のために、悪魔の誘いをしりぞけた」。だが、神から自由をもらい受けた人間はその自由を使いこなせたのだろうか。「はたしてあのいくじのない、永久の不身持ちな、永久に下司(げす)ばった人間の目から見て、天上のパンと地上のパンをくらべられるだろうか。・・・(人はキリストがパンを与えるのを拒否したことで自由は得た。しかし)最後に彼らは自由になるのが恐ろしいと感じ始めるに違いがないのだ。・・さあ、荒れ野における第一の問いはこうした意味を持っているのだ」といって、目の前のキリストを厳しい表情で批難するのである。大審問官のこの指摘は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で提示されたことと同じである。つまり、人は神から「お前は自由だ」と言われながら、その自由の恐ろしさにふるえている。ここで人は自らの実存の根源的な問題と直面するのである。

以下明日に続く。
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by weltgeist | 2010-04-12 21:28


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