カラマーゾフの兄弟、その2、イワンの無神論 (No.700 10/04/11)

d0151247_214332.jpg カラマーゾフの兄弟が世界文学の最高峰の一冊に数えられるのは、この小説の第五遍、第五章に「大審問官」という特別な章があるからだ。次男イワンが空想で書いた「劇詩」で、その中に登場するキリストと、これを批難する大審問官との鋭いやりとりが書かれている。神が作ったこの世は悪がはびこり、ひどい世の中になっている。それをお前、キリストはどう責任を取るのだ、と劇中のキリストに大審問官が詰め寄る話である。
 この大審問官の章を理解することがカラマーゾフの兄弟理解の鍵であると言われている。確かに緊迫した場面で、内容的にはとても深刻である。20歳のとき読んだ小生にはその内容があまりに大きすぎるテーマで、どう答えていいのか見当が付かなかった。このときは作者の意図が全然分からなかったのである。しかし、今回読み直してみて、大審問官の章の言いたいことがことのほか単純であることに驚いた。あのとき何故自分は理解することが出来なかったのか不思議に思えるほど作者の意図を読めたと感じた。もちろん、それは錯覚であり、間違った解釈かもしれないが、それだけ自分が歳をとったからある程度のことはつかめたのではないかとも考えられる。
 ところで、有名批評家はおしなべて大審問官の章がカラマーゾフの兄弟の重要なキーを与えてくれる章と述べているが、今回小生が感じたのは、評論家先生とは違って大審問官より、アリョーシャの師であるロシア正教のゾシマ長老の死を扱うところの方がもっと重大なことを言っているのではないかと思えたことだ。それで、カラマーゾフの兄弟の核心は大審問官ではなく、ゾシマ長老ではないかと思い始めているのだ。それもおいおい書いていくつもりである。

 さて、カラマーゾフの兄弟は長男ドミトリー、次男イワン、三男アリョーシャの3人がそれぞれ個性豊かな兄弟だが、上二人は無神論者であるのに対し、一番年下の三男アリョーシャは修道士見習いで、キリスト教信仰に自らの一生を捧げようとしている。アリョーシャは若いから信仰心には心許ないところがある。理科大学出身のイワンは、ある日アリョーシャを呼んで、彼の弱点を突いて自らの無神論をとうとうと語り始める。これが次に彼が書いた劇詩、大審問官の章へと続く導入部になる。今日はこれを取り上げたい。
 科学的思考の持ち主であるイワンは、仮に神がこの世の中に存在していたとすると、それはとうてい許せないことだと言う。なぜなら、世の中はあまりに悲惨で、苦難に満ちているからだ。とりわけ彼が許せないのは、子供たちがひどい目にあっていることだ。大人はある程度罪深い連中だから苦しむのは致し方ないとしても、生まれたばかりの無垢な赤子までもが目を覆うような目に遭うのはどうしてだ。神はそんなひどい世界を創造したとすれば彼こそ罪を犯した張本人だろう。そう言ってキリスト教信仰に身を投じようとする弟アリョーシャに批難のほこ先を向けてくるのだ。
 イワンは次のように言う。「おまえにはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することの出来ないちっちゃな子供が、(親のひどい虐待で)いたいけなこぶしを固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいて、”神ちゃま助けて”と祈ったりする、こんな不合理をお前は説明出来るか。お前は神の聴法者だ。いったいなんの必要があって(神は=筆者加筆)こんな不合理を造り出したのか、一つ説明してくれないか」「すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ。お願いだから聞かせてくれないか。なんのために子供が苦しまなければならないのかを」とイワンはアリョーシャに神が地獄のような世界を創造した意味を問いつめるのである。
 子供だけではない。この世の中には罪もない人がひどい目にあうことが山のように存在している。神はなぜそうしたものを創造したのだろうか。キリスト教徒はそうした苦難も試練として受け止める。そうしてそれを乗り越えて「調和」を得ると言う。しかし、イワンは「決して人間がこれ以上苦しむことを(ぼく、イワンは)欲しない。もし子供の苦悶が真理のあがないに必要だと言うなら、ぼくはきっぱり断言しておく。一切の真理もこれだけの代償に価しないと」と神への挑戦状を突きつけるのである。
 こうした前置きでアリョーシャに先制パンチを食らわせたあと、いよいよ自らの劇詩、大審問官の話に入っていくのである。
 イワンにとって何の罪もない子供への虐待が繰り返されるような世の中を神が造り、しかも何の救済策も講じないことに不信感を募らせ、無神論に突き進むのである。こんなひどい世の中を神が造ったとすれば、それは許されないことだというのがイワンの主張である。だが、この論法は神を信じない者がよくいう言い方で、何等目新しいものではない。
 ここで幼児虐待の話が出たので以前、マルティン・ルターが生まれたばかりの赤子でも罪があると書いていたことを No.326 で紹介したのを覚えておられるだろうか。「我々がどれほどの善を行っても、あらゆる人が、生後一日の嬰児でさえも、これ(罪)によって汚染されていることは経験によって実証されている」(ルター、ローマ書注解 4-7 )とルターは断言している。ルターのこの言い方もひどいが、それはともかくとしてドストエフスキー、いやイワンはルターの主張を知らなかったのだろうか。それとも彼はプロテスタントではなくロシア正教のことを責めているのだろうか。どちらにしても、我々はイワンの言いたいことに対する神の反論を知りたいところである。その答えは次の章の大審問官の最後で示されるのだが、今日の紙面は無くなった。

以下は明日に続く。
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by weltgeist | 2010-04-11 22:38


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