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小市民化する若者たち (No.677 10/03/19)

 最近の若者は物を買わなくなったと昨晩のNHKテレビが放送していた。自分が若かった頃は「あれも欲しい、これも欲しい」で何でも買いまくったが、今はブランド物から車まで、若者からそっぽを向かれつつあるようだ。こうした若者にどうしたら物を買わせることが出来るのか、経営者は頭を使って彼らの購買意欲を起こさせる販売戦略をねらねばならない。それに失敗した企業はこれから生き残っていくことが難しくなるだろう。
 若者世代が物を買わないと言うが、小生だって最近これといった物を買った覚えがない。消費離れは若者だけでなく、老いも若きも同じように買わないのだ。原因はもちろん不景気。先立つ軍資金がないから買えないのが大きい。しかし、我々の場合は長い蓄積があるから、実は家の中には物が溢れている。そんな中で新たに物を買おうと思うのは、我々自身が納得するような物だけである、よほど優れた物でなければ買わない。買わなくても平気なのである。
 我々が若い頃はまだ物も無く、怒濤のように物を買い続けた。60年代半ばのいざなぎ景気時代には三種の神器として、三つのC、すなわち ColorTV(カラーテレビ)、Cooler(クーラー)、Car(車)を揃えることに夢中になっていた。3Cがなければあたかも幸せではないかのような錯覚をもち、せっせと買い物に励んだのである。そうして、狭い日本の家の中は物で溢れてしまった。正直、もうこれ以上新しい物はいらない。どうしても買うときは以前使っていたものを廃棄してスペースを確保しなければならない。そのくらい我々の世代は物が溢れているのである。
 だが、今の若者は出発点から違う。我々のような飢餓感などなく、親の飽和状態を見ているから、何かを買わなければ自分が駄目になるという気分にならないのだ。もはや買い物依存症のようなことは過去の出来事であって、若者は親の飽和感を引き継いでいるのである。彼らには我々の世代では感じられなかった余裕のようなものがあるといえよう。
 このような余裕感はどこから生まれるのか。実は、彼らは最初から求める目標値をささやかなものに限定していて、則(のり)を越えないところで満足を実現していると小生には見えるのだ。車があれば確かに便利かもしれないが、そのためには猛烈に働いてお金を貯めなければならない。そこまでするくらいなら車など無くたっていいと、思う。小さな幸せ、小市民的な、ささやかな枠の中で満足し、その枠を越えて外に出ていかないのである。
 だが、幸福感の実現という点では、これが正しい答えかもしれない。欲望だけを追い求めても、それは限りない無限地獄にはまり込むだけである。どこかで適当に手を打って、そこそこの幸せで満足する。これが今の若者ではないかと思うのだ。明治時代の若者は国を良くしようと志を高く掲げて頑張った。自分の限界を越えて偉大な事業を成し遂げた人が沢山いた。いまは、最初から小物を目指した小市民と化している。若者の多くが草食系になりつつあるのは間違いないと感じる。
 しかし、こうしたことは困った兆候でもある。満足感で満たされたガッツのない人間ばかりが増えて、国の活力そのものに力がなくなりつつあるのだ。先のバンクーバーオリンピックをみればすぐに分かる。中国や韓国の力強い勢いに比べて、日本が如何に現状に甘んじていたかは歴然としている。
 過去の文明はいずれもそれが最高度に発展したところで、内部的に飽和感が生じて自ら崩壊したとトインビーが言っている。日本はもはや頂点まで上り詰めたのかもしれない。これからますます力を失い、やがてはイギリスのような影の薄い国になっていくのかもしれない。しかし、そうだからといって、失望することはない。むしろ、人間が人間らしく生きるにはそうしたゆとりのある社会でゆったりと暮らす方が幸せではないかとも思うのだ。
 これからは多分中国の時代だろう。そのすさまじいばかりのナショナリズムのうねりのなかで、中国は発展していくだろうが、その道はかって3Cを追い求めた日本の再現である。そこで人々は飽くことなき物欲の充足こそが「幸福」であるとの幻想を追いながら、ストレスにさいなまれるのである。
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by weltgeist | 2010-03-19 23:55


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