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ベルリンの壁崩壊から20年 (No.551 09/11/09)

 2009年11月9日、つまり本日は東西ドイツを分断するベルリンの壁が崩壊して20年を迎える記念日である。ドイツでは今夜から明日にかけて、様々な記念行事が開催されることだろう。
 小生はまさにこの壁が崩壊した1989年11月9日はロンドンにいた。テレビはどこを回してもこのニュース一辺倒で、ヨーロッパは興奮の渦で沸き返っていた。ロンドンではこれで共産主義の恐怖が薄れると皆が喜んでいたのを覚えている。
 壁が崩壊する少し前、ハンガリーからオーストリアに大量の難民がなだれ込んでいたし、ソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが始まっていたから、壁の崩壊は時間の問題だった。一度こじ開けられ始めた自由化の光は、自由を求める怒濤のような人の波によってあっと言う間に開かれ、壁は崩れ去った。もはや恐怖や圧政で人々を押しつけることは出来ないことを歴史は世界に知らしめたのである。
 小生がちょうど大学に入学した1961年頃はまだ東側共産主義は強固な武装集団であり、鉄のカーテンの下に人々を押し込めていた。しかし、そうした体制に不満を持つ人が西側に脱出する事件がこの頃から連続して起きたのである。壁が作られたのはまさにこの時期だ。監視兵に銃撃される危険をおかしながらも、西ドイツへ亡命を繰り返す人は後を絶たないようになったのである。
 自由を抑圧する共産主義の残酷さを西側は激しく批判したのに対し、東側では共産党が率いる勢力が「資本主義の堕落」を攻撃して厳しい対立状態にあった。そうした緊張はキューバ危機で核戦争が起こる寸前まで高まっていたのだ。ベルリンは東西冷戦の舞台として、激しい応酬の場となっていたのである。小生が鮮明に覚えているのは米国、ケネディ大統領が1963年に西ベルリンに乗り込んで来て、こうした東ドイツの自由の抑圧を厳しく批難したことだ。彼は演説の最後に

Ich bin ein Berliner!   私は一人のベルリン市民だ!

と言って力強く演説を締めくくった。私ケネディは、米国大統領としてドイツ国民を見捨てない。深い連帯の気持ちを持っていると宣言したのである。
 ちょうど、ドイツ語を学び始めたばかりの小生には、熱狂的なケネディが語った(イッヒ・ビン・アイン・ベルリナーという)ドイツ語の響きの具合までいまだに覚えている。しかし、ベルリンでの印象深い演説から5ヶ月後に、ケネディはテキサス州ダラスで暗殺された。当時、狙撃犯とされたオズワルドは東側のスパイと信じる人が多かった。それほど東西冷戦の陰は深く人々の間に浸透していたのである。
 同じ年にはスパイ小説の最高傑作と言われるジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」 (The Spy Who Came in from the Cold / 1963) が発表されている。ベルリンの壁を巡る東西冷戦での諜報合戦を扱った作品で、東ドイツ諜報機関副長官、ハンス・ディーター・ムントを陥れようとする英国諜報機関との暗闘が驚くほどスリリングに書かれている。元英国諜報機関員リーマスとムントの息詰まるような戦いの最後は思いもかけないどんでん返しで幕を閉じる。スパイ小説ってこれほど面白いのかとうならされた作品も、ベルリンの壁があったから生まれたのである。
 
 小生が旧東ドイツ地方を回ったのは2000年の夏であった。すでに壁が崩壊し、ドイツが統一されてから11年も経っていたのに、まだ町は共産主義時代の暗さが残っていた。驚いたのは、おもちゃのような東ドイツの自動車、トラバントがまだ現役としてアウトバーンを何台も走っていたことだ。
 首都ベルリンでも旧西ベルリンの繁華街クーダムに比べて、東ベルリンのメインストリート、ウンター・デン・リンデンは道路だけがだだっ広い寂れた町のままであった。ベルリン繁栄の中心地となると言われたポツダム広場はまだ大規模な建設ラッシュの最中でその完成後の姿は見ていないから分からないが、様々な報道から伝わってくるのは旧東ドイツ住民たちの不満の声だ。貧しかった東は西に吸収されることで、「自由」は得た。しかし、彼らはそのことで誇りを失ったと感じている人が多いのだ。
 共産主義の抑圧から解放されて20年が過ぎた。20歳以下の若者はそのときの苦しさを知らないというが、増大する失業と貧困化に「むしろ、共産主義時代の方がましだった」という人が増えていらしい。共産主義下で自由はなかったかもしれないが、仕事はあったし、貧しくても生活は安定していた。それが、何から何まで自己責任でやらねばならない今のドイツでは、自由と共に苦難もやってきたのだ。
 サルトルが言うように、自由であるとはこのように苦しいことでもあるのだ。命がけで壁を越えて西ドイツに逃げた人たちは、その後自由を得て幸せになったのだろうか。旧東ドイツでは夢が破れた失望感と不満を抱えた人がたくさんいるという。ドイツ国民は自由の重みと意味をかみしめながら、今日ドイツ統一の契機となった壁崩壊20年の歳月を迎えたのである。
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東西ベルリン分断の象徴的な場所だったブランデンブルク門。旧西ベルリン側から東を見たもので、門の向こう側にのびるのが東ベルリン側のウンター・デン・リンデン通り。
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(写真左)西ベルリンの繁華街であるクーダム通り。後ろ側にある尖った建物は中世の面影を残したカイザー・ウイルヘルム教会。広島の原爆ドームと同じように第二次大戦の爆撃跡をそのまま残した戦争記念碑として保存してある。(写真右)旧東ベルリンの繁華街ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)通り。リンデンとは菩提樹のことで、1642年大選侯帝フリードリッヒ・ヴィルヘルムが菩提樹を植えたことに由来する。かってベルリン一の繁華街だった由緒ある通りは、東側地域に入った後その面影もなくなり、閑散としていた。
by weltgeist | 2009-11-09 22:29


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