人は悲しいときなぜ涙を流すのだろうか。最近涙腺がゆるくなってきて、ちょっとしたことでも目から涙が流れ出るようになってしまった。仕事をしていた頃は人の感情の襞(ひだ)までふれるような細かいことを考える余裕もなく、涙とは無縁な粗雑な生活をしてきた。それが、リタイアして暇になったらとたんに泣き虫になってしまったのである。男は滅多に涙なんか流すものではないと、かたくなに信じていたくせに、それを止めることができない。感情の起伏が激しくなっているのか、本当に些細なことでもすぐに涙が流れ出てくるのである。
先日小学生の頃は泣き虫だったと書いた。しかし、いじめっ子と対決して相手を負かして以来、泣くことはほとんどなくなった。むしろ20代から30代にかけての小生は鼻っ柱が強くて、人の声を聞くというより、自分の声を相手の耳の穴にぶち込んででも自分を押し通す強引な人間であった。競争馬が全力疾走するように鼻から息を吹き出して、がむしゃらに人を押しのけて行く生活をしていたと言っていい。涙のような感傷的なものが入り込む余地などない無味乾燥な人生を送っていた人間だったのである。 しかし、いまはそれがすっかり変わってしまっている。歳をとると考え方も変わるのだろうか、昔ほど強い自己主張をしなくなったのだ。むしろ、逆に相手の言葉を聞いて、その人の気持ちを理解してあげようとする心が多少出来たと思っている。昔の小生を知っている友人たちは、今の小生を見てあまりの変わりように皆が驚いている。そんなおとなしい人間に変わったのである。人は考え方一つでここまで変われるものなのだということを自分自身でも実感しているのだ。 そんな性格になったためか、たまに見る映画や、小説を読んだりするとすぐに相手の気持ちに感情移入してしまい、たちまち涙ぐんでしまう。先日見た忠犬ハチ公のアメリカ版映画「Hachi 約束の犬」のときも涙が出て少し恥ずかしい気がした。本を読んでいてもそうだ。スタインベックの「怒りの葡萄」の中で、貧しい農民ジョード一家が銀行にトウモロコシ畑を取り上げられ、ほとんど着の身着のままで「乳と密が流れる楽園」と教えられたカリフォルニアを目指す。苦難に満ちた大陸横断道路、ルート66での悲惨な旅、そして楽園と思ったカリフォルニアで待ち受けていた過酷な運命。読んでいるうちに涙が出てきて止まらなかった。 それにしても、なぜ世の中にはこんなに悲しいことがたくさんあるのだろうか。生きていくことを難しくする数々の障害が、とくに弱い人に集中的に襲ってくる気がする。神は人に乗り越えられない試練は与えないという。悲しいこと、つらいことも耐えて乗り越えれば、後になってそれが人間の深みを与えてくれる契機となると賢者は言う。確かにその通りであると思う。しかし、それにしても試練と呼ぶには悲しすぎることが世の中には多すぎるのではないだろうか。そんなことは出来れば味わいたくない。楽しいことだけで人生を終わりたいと思うが、それはきっと人間である限り許されないことなのだろう。 スタインベックの「怒りの葡萄」の原題は「The Grapes of Wrath 」である。この「 Wrath 」という言葉について小生に英語を教えてくれているアメリカ人のBさんが、「この言葉は普通の怒りではない。とっても強く、たいへん怒(おこ)っている怒(いか)りだ」と言っていた。魂の根底からわき起こるような怒りに直面する人たちは、いまも世界中にたくさんいて、もがき苦しんでいるのだ。 *写真はフィレンツェのサンタ・マリア・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂にあるマザッチオのフレスコ壁画「楽園追放」(1425-1427年)。禁断の木の実を食べてエデンの園から追放され、絶望の涙を流すアダムとイブ。彼らが知恵の木の実を食べた罪のために、今も我々人間が悲しい思いをさせられているのである。
by weltgeist
| 2009-10-25 23:36
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