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ケチな人について (No.492 09/09/12)

ケチな人について (No.492 09/09/12)_d0151247_2320567.jpg 世間には「ケチな奴」と呼ばれる人が沢山いる。小生自身もケチな部類の人間に入るのかもしれない。というのも最近は無駄遣いしないようにしているからだ。スズメの涙にもほど遠い年金以外に収入がなく、すでに貯金が底をついてきている我が家ではそうしないととんでもないことになるからだ。無い袖は振れないので必然的にお金の出はセーブしなければならないのである。
 だから、電車やバスに乗るにも10円でも安いルートを見つけている。決して無駄遣いはしないように心掛けているのだ。そういうことがケチとすれば、小生はまさにドケチである。だが、それでも必要なものは出ていく。貯金は減る一方で、このままだとそろそろ海外旅行どころか、釣りに行く費用もタイトになってきそうだ。でも、電車賃はケチっても、旅行や釣りに行く費用は削りたくない。むしろ、旅行に行きたいから節約するのである。
 レストランのメニューを見て高いからと迷うのは人間的には自然なことでケチでもなんでもないと思う。ステーキを食べたいがもったいないから牛丼にしよう。でも、この浮いたお金でいつか自分の手に届きにくかったものを買ってやろうと思うのは自然な発想であると思う。
 我々は「ケチな人」というとき、少々誤解している面があると思う。ケチと節約は似ているようでいて非なるものである。例えば皆でステーキを食べようと誰かが言い出したとき、お金の無い人が「私は牛丼」と言ったとする。それを「ケチ」と思うのは大きな間違いである。人にはそれぞれの経済的事情がある。食べたくてもお金の無い人にはそれが出来ない。むしろそうした人の心情を理解してあげるのが人の道であると思う。
 「ケチな人」が問題になるのは、周囲の人のお金を当てにする賤しい根性があるからだ。例えばみんなで食事をするときに自分だけお金を出したがらない人がいる。金は十分持っているのに人にたかろうとするさもしい根性の人をケチというのだ。
 金持ちが毎日爪に火をともすような生活でお金を貯めても、これはケチとは違う。自分の生き方を自分で決めているのだから誰も文句をいう筋合いはないのだ。だが、金があるくせに自分の懐はそのままに、人の財布を当てにするやからをケチというのである。こうしたケチ根性の人は周囲から嫌われやがて誰からも相手にされなくなるだろう。
 ひどいのはこれが犯罪にまで発展することだ。先日理化学研究所の研究員が、出張旅費を取引先から出してもらいながら、研究所からも二重にもらっていた例が摘発された。相手の財布をダブルで当てにしているのだから呆れ果てる。こうした発想が人を賤しくさせ、「ケチな奴」を産み出していくようになるのだ。
 
 使徒行伝5章にケチな人間の末路について書かれた話が載っている。皆が全財産を提供しあって神を信じる共同生活をしようと集まったとき、アナニアとサッピラという夫婦が、自分の土地を売った代金の全額を出さずに隠そうとして見破られ、神の怒りに触れて死んでしまう下りである。
 このときの共同体に集まった人たちは、皆が心底から全ての財産を提供し、互いに助け合いながら共同生活を行おうとしていた。それに参加しようとしたアナニア、サッピラ夫婦は、「私の出せる財産はこれだけです」としゃあしゃあと嘘を言って共同体に入ろうとした。自分の財布は仕舞っておいて、他人の財布を当てにしようとしたのである。彼らは神を信じたのではなく、共同体の人たちの懐を当てにしていたのである。
 現在でもこんな原始共産制とも言える共同体はヤマギシズムなどいくつかあるらしいが、小生の知らざる世界のため、何もいうことはできない。しかし、もし自分がアナニアの立場でこうした共同体に参加することになったらどうしただろうか。全財産を売り払ったお金を全部共同体に出せる勇気はない。将来に不安があるから、手元にいくらかのお金は残しておいたと思う。
 アナニアの行為はケチな精神から出た結果と思われやすいが、彼らは共同体の理念である神の存在を信じていなかったから罰せられたのだ。完全に信じていれば迷わず全財産を提供しただろう。彼らはケチとは違う。相手を信じていない不信が責められたのである。
by weltgeist | 2009-09-12 23:21


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