釣り仲間の夢枕獏さんから最新作の「秘帖・源氏物語・翁」を送っていただいた。この小説は「デジタル野生時代」の2010年12月から11年11月までに連載されたものを加筆、修正して文庫本化したものだという。浅学な小生、「デジタル野生時代」なる書籍を知らなかったので、ネットで調べると角川書店より発行された業界初の書き下ろし電子書籍型小説誌なのだそうだ。小生の知る獏さんは、原稿を書くのにパソコンを使わず、万年筆で手書きした原稿用紙をファックスで出版社に送る古典的な小説家のスタイルを頑なに守っていた人だった。それがついにパソコン・メールでの原稿書きを始めたのかもしれない。 それはさておき「翁」は源氏物語第一部「桐壺」を素材に書かれたものである。源氏物語の原文はたいへん難しく、与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴など沢山の人が現代語訳を出している。小生は確か谷崎訳で読んだが、それでもあまりの難しさにすぐにギブアップした悔しい挫折本である。それを獏さんが桐壺をベースに小説にしたのが「翁」なのだ。 光源氏の妻・葵の上は光源氏の愛人、六条御息所の家来ともめ事になった頃から物の怪に悩まされて臥せるようになる。彼女には得体の知れない「何か」が取り憑いていて、体の具合がどんどん悪くなるのである。光源氏は普通の人には見えない霊のような世界を見ることができる特殊な能力を持った人間である。彼には妻・葵の上に何か悪い霊が取り憑いていることは分かる。しかし、どうしたらそれを追い払えるのかが分からない。それを同じ超能力者である蘆屋道満の協力で除霊しようとするのである。 葵の上に取り憑く悪霊とはどのようなものか。それは「異国の禍神」であるという。獏さんが本領を発揮するのはこの「異国の禍神」の解釈である。獏さんは京都太秦(うずまさ)にある太秦寺、すなわち広隆寺に現在国宝となっている弥勒菩薩像にスポットを当てる。半跏趺坐した弥勒菩薩像の左足に右足を乗せた形が十字架に見えるというのだ。また寺の池には小さな小島があって、そこに柱が三本の特殊な鳥居があるが、これは父と子と聖霊が三位一体であることを意味するに他ならない。それを祀っていることは広隆寺が仏教という仮面の下で隠れキリシタンのようにキリスト教信仰を密かに行っていた、という面白い解釈をするのである。 そうして、比叡山で光源氏たちは琴、笛、笙、琵琶、鼓などの楽器を揃え、その音色に合わせて蹴鞠(けまり)を始める。すると、その楽につられて物の怪達が集まってくる。光源氏は鞠を蹴ることに集中していきながら、次第に己を消していく。自分の身を、心を、蹴るたびに、舞うたびに、少しずつ削って天地の中に捨てていくのである。そして、自分を虚しくしたときすべてのものが自分と同じ形式、同じ様式でこの世にあることを悟る。彼が赤子のような無心な気持ちになったとき、そこに宿の神を見るのである。 宿の神はちんまりした猿のような翁であった。光源氏は妻に取り憑いた禍神は何かと尋ねる。すると、翁は、赤子になった光源氏に「それはお前だ」と伝える。つまり、彼女に取り憑いていたのは光源氏そのものだというのだ。 ここに獏さんなりの悟りの境地の解釈がある。己を削って無になったとき、自己は世界に溶け込む。そこでは自分も他者もない。無心になった私と全世界は一体化している。西田幾多郎がいう「絶対矛盾的自己同一」と同じである。光源氏は禅僧の悟りの境地に達していたのだ。そうして葵の上の物の怪の意味が分かり取り除くことができたのである。 ただ、分からないのはその後で、蘆屋道満が「エロヒムマレサバクタニ」と謎のような言葉を言うことだ。これはマタイ福音書で十字架に架けられたイエス・キリストが最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 (27:46) と言った言葉と同じである。その意味は「おお我が神よ、我を見捨てたもうか」である。 獏さんの太秦寺とキリスト教を結びつけて源氏物語を解釈していくのはたいへん面白い。しかし、最後のこの言葉で小生は躓いてしまった。禅の悟りの境地に似たものと「神は我を見捨てたもうか」の関係をどうとったらいいのか、今の小生の能力では分からない。今度獏さんにお会いしたら、このことについて質問してみるつもりである。 いずれにしても、こうした謎の深さから言って、獏さん自身が後書きで「この小説は傑作です」と語っているように、いままでの獏さんの枠を超えた新しい天地での傑作であるのは間違いない。
昨日、一昨日の二日間、ブログの掲載を休んだ。「休んでいる間、どこへ行っていた。サボってきたな」とおしかりを受けそうであるが、まさにご推察の通り、二日間、温泉に浸かってのんびりとサボりを楽しんできた。と言っても東北あたりのひなびた名湯ではない。行き先は山梨県の石和温泉。ここは今から50年ほど前に果樹園の畑から突如として温泉が湧き出し、その後みるみる大温泉街ができあがった歴史の極めて浅い新興温泉である。
花咲か爺さんではないが、畑仕事をしている所から宝の水が湧き出したのだからたいへん。東京から電車で2時間以内で来れるアクセスの良さもあって、甲州人たちが早速一大温泉郷を造り出し、今では熱海につぐ規模にまでなったという。 小生そんな石和温泉に来るのは初めてで、温泉としてのグレードもどの程度なのか分からない。それでも多少はひなびた雰囲気があるかなと思ってやってきたら、とんでもない。町のど真ん中にマンションみたいな建物が建っている。ひなびた温泉街の風情など何もなく、泊まった宿は町のスーパー銭湯のようで、ちょっと興ざめのである。 さて、チェックインしてからまずはお風呂に向かう。旅館はとても大きな建物で部屋から大浴場まで迷路みたいな廊下をいつまでも歩かされる。外側からだと小さく見えたが、内部は建て増し建て増しで、相当大きい。こんなデカイ旅館だと、昨今の不景気でお客が減ってたいへんだろうな、と思いつつ大浴場に到着。 そして脱衣場に入っておやっと思ってしまった。脱衣場だけで10名近い人がいるではないか。意外にお客はいるんだと思って浴室に入ると、さらに沢山の人がいる。不景気どこ吹く風の人気ぶりである。 風呂から上がって部屋に戻るとき、あまりに長い廊下を歩いたから自分の部屋がどこにあるのか分からなくなってしまった。そんな迷子になるほど大きい旅館に沢山のお客が来ているのである。夕食のとき女中さんに本日の宿泊数はどのくらいか聞いてみたら、「今晩は230人くらいです」とこともなげにいう。すごい。さすがに東京の奥座敷だけあって、お客様は来てくれているようだ。しかし、繁盛の原因がどうしてなのかはよく分からない。 我々の宿泊代はネット予約で一人1万円。決して高くはないが、さりとて安くもない。それなのに何でここまで売れているのか、その理由は家に戻った今もって理解できていない。 ノングルメの小生にとっては夜の食事も朝もまあまあ合格点をあげていいと思う。食べきれないほど出る冷たい宿の食事よりはずっといい。しかし、温泉ド素人の小生をしても、ここの売りである「温泉」はいただけない。石和温泉は単純温泉である。ということは含有成分が非常に少なく、ほとんど水と変わらない。だから、水を湧かしていたとしても分からないのだ。 大浴場から流れ出る「温泉」の量は膨大で、いくら畑から湧き出したといっても、こんなに大量に使えるわけはない。地下水を湧かした「ニセ温泉」ではないかと少し怪しんだが、これはもちろん小生の「邪推」である。しかし、一緒に行った温泉に詳しい友達の評価は星ゼロ、ないし一つがやっとであると言っていたから、温泉としては落第だと思う。 それでも、このところずっと忙しい日が続いていたので、二日間の休筆は良き骨休みとなり、久しぶりに休日を堪能した気分であった。そうして、また今夜から新たなブログを書き始めた。たった二日間味わったリフレッシュ休暇はもうない。正直を言えば今夜のブログはもう一日休みたかった。そうなればどんなにゆったりした気分が味わえるだろうかと、思いつつ今このブログを書いている。 ![]() ![]() このため新しい物に替える必要があるが、どうせ替えるなら今後5~6年以上は使える高性能な物にしたい。また現在バイオに増設してある4台のHDDから3台は新機種に内蔵HDDとして移設したい。そうなると、ノートブックでは無理。CPUは現在最強の i7、メモリーもできるだけ沢山積んで、グラフィックボードやHDD増設空きベイに余裕のあるデスクトップということになる。 このスペックを満たす物でメーカー品を調べたら20万円以下では見当たらない。予算は出せて15万、できれば10万くらいであげたい。そこから候補に出て来たのがパーツを組み立てて作る自作パソコンである。これには Dell や HP など大メーカーでも CPU だけ i7 のベーシックなモデルに自分が必要とする機能を追加したオーダーメードPCがあり、予算も10万円以下で収まりそうである。 先日ロンドンで壊したWindowsCE シグマリオン後継機の購入もしなければならない。それで今日は久しぶりに秋葉原へ偵察に行ってきた。だが、秋葉原で小生がまるっきり今浦島太郎状態になっていることに気がついた。確か秋葉原に来るのは半年ぶりくらいのはずなのに、世の中ものすごいスピードで変化していたのである。とにかくデフレ、デフレ、物の値段が驚くほど安くなっていた。例えば、250GBのハードディスク、これが1000円くらいから売られている。小生のバイオに積まれている起動ドライブが入るHDDはSATA250GBである。それがただみたいな値段になっているのだから驚く。 ちなみに新しいPC に買い換えたとき、今使っているバイオはどのくらいで下取りしてくれるのかショップに聞くと、「ゼロ円で引き取りましょう・・・」である。購入した時はディスプレーも含めて70万円近くした物が、もはや何の価値もない。ショップの人は小生が新しいPCを購入するので「仕方なく引き取ってやる」という態度だ。まるで、先日芥川賞をとった田中慎弥さんの「もらってやる・・」みたいな言い方である。 この変化の早さでは新しいパソコンを買っても5年後くらいで新たなゴミとなることだろう。優柔不断な小生、今日の所は新パソコンをオーダーする決心がつかずに帰宅した。そして、何気なく最新PCの動向を海外のネットで調べたら、どうやら今年中にWindows 7 が新しいバージョン、Windows 8 になるようだ。そうなると、買った直後にすぐ「旧製品」だ。購入を考えている人は少し控えた方がいいかもしれないと記事には書いてあった。新OSが出るのは秋のようだ。それまでPCを欺し欺し使っていくののしんどい。困ったことである。 お知らせ・明日、明後日は出かけるため、書き込みを休みます。 ![]() その時の写真を日本に帰ってチェックしてこの状態に気づいた。だがこのあと本番で撮った写真は上半身のアップだけで、下のバッグまで全身が写っているカットは一枚もなかった。だからお金がどうなったのか分からない。彼女が気がついてバッグにしっかり入れ直したのか、それともこのまま気がつかずお金を落としたのか、撮った写真からは分からない。もし落としていたとしたら、彼女に申し訳ないことをしたことになる。小生の責任は大である。 5ポンドとは今のレートで650円ちょっとくらいだろうか。金額的にはたいしたことはないかもしれないが、願わくば落ちそうになったポンド紙幣に気がついてバッグに仕舞いなおしていたと思いたい。しかし、今の小生には確かめようもないし、彼女にわびることもできない。 あわて者の小生はこのように何か一つのことに集中しているとき、他のことを見落とす失敗をやりやすい。良いカメラポジションを探そうと、ファインダーを夢中にのぞいていて、足もとの石につまづいたことが何度もある。石なら転倒するだけだが、崖を踏み外したりしたら命に関わる。一度など防波堤のふちから海にカメラを抱えたまま転落しそうになったこともあるのだ。 人間の脳は一度にいくつものことを同時にこなせるようマルチタスク構造になっているが、これは若い頭の良い人の場合であって、小生の萎んだ脳はそこまでこなす能力がなくなっている。情けないけどこれが現実だ。 同じような失敗を繰り返すまいと自分に言い聞かせている。しかし、焦り始めると脳のマルチタスクが効かず、シングルタスクで注意散漫になるのが小生の悪い癖である。そんなことばかりやっていると、大きな事故を起こさないとも限らない。今後も同じ過ちをやり続けるのではないかと思い、自分にも相手にも注意しなければと肝に銘じているのである。 ![]() ここに登場してくる人を見ていると「中世は暗黒の時代だった」という言い方が嘘であることが分かる。描かれている人たちは貧しい身なりこそしているが、不幸な感じが何処にも感じられない。それどころか生き生きとしたユーモアさえ感じる。スペースの関係でこの絵に登場する沢山の人全部を紹介できないのが残念だが、描かれた人たちはいずれも明るく陽気なのだ。貧しく苦しい生活なはずなのに、そうした雰囲気が感じられないのは何故なのか。ブリューゲルが描いている他の絵でも登場してくる人物はいずれもどこか楽天的で人生を謳歌しているような人ばかりである。一連のブリューゲルの絵を見ると中世の人たちはきっと幸せだったのだろうとさえ思えるのである。 快適な家に住み、時々はおいしいレストランで食事をし、仲間といつでも連絡できる携帯電話を持っている恵まれた現代人と比べて、なんと生き生きした人たちだろうかと思ってしまう。百姓に生まれたら百姓、鍛冶屋に生まれたら一生鍛冶屋と、職業選択の自由もなく与えられた仕事を何の疑問もなくこなしていた彼らは、中世をどう生き抜いたのだろうか。海外旅行どころか隣町への旅行もままならない不自由さに不平も言わず生きる中世の人々が現代人よりはるかに幸福そうに見えるのが不思議である。 彼らの生活を見ていると、現代人の生き方がこれでいいのか考えてしまう。良い家に住み、お金を沢山稼いで、おいしい物を腹一杯食べることがそのまま幸せにつながるわけではない。お金がなくても幸せにはなれる。毎日が中世の人たちと同じように充実した日々をおくれればそれで満足できるのではないだろうか。 小生、ブリューゲルを見るたびに、今置かれた自分の状況の不合理さを思ってしまう。彼が生きた時代から500年も経っているというのに、人間は一体何をしてきたのかと考えてしまうのである。 *ピーター・ブリューゲル父「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(部分)、ウイーン美術史美術館蔵。 Pieter Brueghel der Ältere / Der Kampf zwischen Karneval und Fasten / 1559 / Kunsthistorischen Museum in Wien.
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