![]() 「グルーニング美術館」には世界で最初に油彩画を描いたと言われるヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」がある。「聖母子」は人間業とは思えないほど超リアルなタッチで描かれていて度肝を抜かれるが、今日はそれとは別に、1430年頃から-1494年までブルージュで活躍した初期フランドル絵画の巨匠、ハンス・メムリンクの作品を集めた「メムリンク美術館」の絵について書いてみたい。 メムリンク美術館は名前の通りハンス・メムリンクの作品を集中して集めた世界で唯一のメムリンク専門美術館である。ここにあるメムリンクの作品のうち、双璧は「聖カタリナの神秘の結婚」」とベルギーの国宝になっている「聖ウルスラの聖遺物箱」である。小生の個人的な感想を言わせてもらえば絵の完成度では「聖カタリナ」の方が上だが、注目度からいうと「聖ウルスラ」の方に軍配をあげたい。というのも、こちらは普通の絵ではなく、上の写真のように、「聖遺物」を収める箱に、聖ウルスラがケルンからローマに11000人もの処女を連れて巡礼に行き、ケルンに戻ったところで侵略してきたフン族に殺されるという殉教物語を一連の絵で描いているものである。 金色をした聖遺物箱は87X33X91㎝という小さな物で、実際に現物を見ると思った以上に小さく感じる。箱の横には11000人もの処女を連れてローマまで巡礼に行ったというウルスラが乙女たちをマントで覆って庇護している場面と、反対側(この写真の左裏側)には幼いキリストを抱く聖母マリアが描かれている。そして、側面はそれぞれ3枚の絵でケルンからライン川をバーゼルまで行く場面やローマに到着して教皇キリアクスに迎えられるところ、岐路は再びバーゼルからケルンに戻るところで侵略してきたフン族に殺される殉教の場面までが、紙芝居風に連続して描かれている。 以下明日に続く。
渋谷駅で乗客同士がたわいもないことから喧嘩になり、普通の市民がナイフで刺されてしまった。刺した男は逃げたが、防犯カメラの映像からすぐに逮捕された。地下鉄の駅のような公共施設には防犯カメラが無数にあり、これの監視網で犯人が特定されて無事逮捕となったようだ。犯人の映像はぼやけた静止画像で素人が見ても良く分からないものだったが、警察は他のカメラも合わせて犯人を絞り出したのだろう。さらに今日もコンビニを襲った強盗の映像が流されていたが、コンビニ強盗の顔は鮮明に映し出されていたからこちらの逮捕も時間の問題だろう。
今回の事件で分かったように、我々は至る所で様々なカメラによって監視されている。無数にある監視カメラは犯罪防止が主な目的だから安心感は高まる。しかし、プライバシーという点では引っかかる。「俺の顔を撮るな」と頑張ってもカメラは止まってくれない。有無を言わさず勝手に記録し続けていく。今日の逮捕からみて、今の監視カメラシステムを使えば特定の個人情報など簡単に集めることもできるようで少し怖い気がする。 そんなものいくら撮られても自分が悪いことをしていなければ問題は起こらない。平気の平左だよ。悪党どもが肖像権など主張する方がおかしい。悪いやつらはどんどん撮れば犯罪も減るだろう。そう思ってこれまでの防犯カメラは設置され続け、いまや膨大な監視システムが構築されるまでになってきた。日本の社会がある程度平和に保たれているのはこうしたカメラが抑止力になっているから致し方ないのかもしれない。 ところで、渋谷の犯人が捕まって、サバイバルナイフを護身用に常時携帯していたことが明らかになった。猛獣が出没するような危険な場所なら護身用も分かるが、渋谷のような都会となると、この男は何から自分を守ろうとしたのか疑問符が付けたくなる。きっと他の人が自分を襲ってくる猛獣のように見えていたのだろう。彼は「キチガイに刃物」を地でいったことになる。こんな猛獣みたいな男が徘徊している以上やはり防犯カメラも必要なのかと思わざるを得ない。ちなみにアメリカでは写真のように、車の中に拳銃を「護身用」に置いていても全然問題にならないのだという。警察が守ってくれないから自分で武装するという社会の方がもっと怖い。 ![]() ![]() ![]() ![]() 小生たちは最初はこれらの行動をイライのやりたいように自由にさせていた。しかし、噛みつきがあまりに頻繁になって少し心配し始めている。このまま噛む癖を付けたら、大人になったとき怖い「噛みつき猫」になるかもしれないと思い始めてきたのだ。今の状態のまま成長すれば彼がこの家の主人、一番偉いものと誤解し、主人顔をする我々に噛みつき攻撃をするかもしれないと心配し始めたのである。 そこでイライの「噛みつくこと」を止めさせる作戦を始めた。まず第一にやるのは、わが家の主人は我々であってイライはあくまでもペットであることを自覚させることだ。要求すれば何でも叶うと思わせることは、結局彼を甘やかし、間違ったように育てることになる。要求されても駄目なものは駄目とはっきり自覚させる必要がある。 噛みつくことは良くないことだと彼に分からせなければならない。だが、それをどうやって分からせるか。幼児虐待の母親のように折檻して分からせることはイライの性格を歪めることになる。かといって甘やかすこともできない。今のところ、彼が噛みつきを始めたら「駄目」と怒り、噛みつき行為を相手にせず無視するようにしている。まだ、この調教は始めたばかりで目立った効果まで至っていないが、それでも少しだがイライの噛みつく頻度が減ってきた気がする。 これ以外にも例えばテーブルの上に乗ってご主人様が食べている食事を失敬したり、雨戸を開けるスキを狙って外に飛び出すことを止めさせるなど、しつけるべきことは山積みしている。小生たちはこの歳になって言うことをきかない「子供」のしつけをどうしようか頭を悩ませ始めているのである。
50年来の友人である田原泰文氏とギフチョウを採りに新潟県に行って、さきほど帰ってきた。出かけたのは今朝の午前3時だからほぼ一日をフルに使って駆け回ったわけで、たいへん疲れてしまった。もう長い文章を書くだけの気力は残っていない。そのうえカメラ小僧ならぬカメラじじいである小生、「出かけるときは忘れずに」の心がけを忘れてしまい、カメラ無し。今夜掲載した写真は田原氏から借り受けたものである。
さて、今回の新潟ギフチョウ採集は午前中の早い時間に長岡市に生息しているチョウセンアカシジミの幼虫を採捕してから、田原氏が見つけてきた新潟県西部、頸城郡のギフチョウ穴場に行くという二毛作作戦である。 最初に行った長岡市のチョウセンアカシジミは、友人から教えてもらった場所で、ポイントがイマイチ絞り切れていない漠然としたものだった。ましてチョウセンアカシジミの幼虫を採ったことは一度もないので、うまく行くのか心配である。しかし、現場に着いてみたら、トネリコの新芽に黄緑色をした幼虫が沢山ついていて、約1時間半で予定の数を採集できて、まずは第一作戦は成功裏に終了。 続いて本命のギフチョウである。田原氏の話では昨年かなりのギフチョウを目撃できたというが、今年は雪が多く、シーズンが10日から2週間程度遅れているという場所にいく。うまくギフチョウに出会えるか心配である。天気も予報と違ってどんよりとした曇り空だ。しかし、車を留めて山道を歩き始めると次第に空が晴れきて、意外なほど沢山のギフチョウが飛んできた。ここは田原氏が見つけた「穴場」という場所だけあって、そこかしこにギフチョウがいっぱい飛んでいる。前回、5月12~13日の八ヶ岳ヒメギフチョウ採集では腕の悪さから1頭しか採れなかった悔しい思いを払拭することができた。 ![]() ![]() さて、この世の中は罪深い悪いことに満ち満ちている。それゆえに生きることは苦しく悲しいことが多すぎるのだ。いったいこんな悲惨な人生など生きるにあたいするのだろうか。ここまで世の中が悪いのはなぜなのだろうか。どこかに悪の源があって人々を悪い道に引きづり込むのかもしれないと考えてしまう。 本来、人間は汚れなき正しい存在なのに悪魔のようなものにスポイルされていると我々は考えがちである。だが、そうした悪は我々にとってそれではどのような意味があるのだろうか。ただ人生をつらく苦しめる否定的なものにすぎないのだろうか。ゲーテはファウストで悪魔・メフィストフェレスを登場させることで、人間における「悪とは何か」という疑問を読者に提示し、その答えを見つけようとしている。これこそファウストのメインテーマなのである。 だが、結論から先に言えば、その答えはファウストの冒頭、神とメフィストの賭について話すところですでに与えられてしまっている。一昨日 No.1396 で書いたように「人間は絶対的な無為と休息を求める。だからわしは、つついたり引っ張ったりして、悪魔の仕事にせいを出す仲間を与えておくのだ」と言って悪魔の存在を容認している。悪魔とは実は神が人間を善人になるよう促すために送り込んだ彼の手下なのである。 なぜ神はそのようなことをしたのか。それはメフィスト自身の告白で明らかになる。むく犬の姿に化けてファウストの前に立ったメフィストに「いったいきみは何者だ」と質問すると「つねに悪を欲して、つねに善をなす力の一部です」と答えている。言い換えれば悪を欲しても、実はそれは善をもたらす力の一部、原動力であるといっているのだ。否定的であるが、それがなければ善には行き着けないもの、人間を「善き者」へと高める絶対必要な契機なのである。 人間は様々な悪に苦しめられているように見えるがそれは善を生み出す苦しみなのだ、というパラドックスをゲーテは物語の最初のところから言っているのである。だから、神とメフィストの賭は神が勝つことが分かっている。正義は必ず立ち上がってきて勝つのである。神は「悪魔の仕事にせいを出す仲間を(人間世界に)与えておくのだ」と言うように、悪魔の存在自体が神が与え、容認した者だから神が賭に勝つのは当然なのである。 キリスト教では悪魔はもともと天上界にいた天使の一人であった。それが悪さをして天上界から地上に追放されて、竜の姿をした(黙示録12:7)ものと考えている。神の御使いである天使の一人として、人間界での「罪」を一手に引き起こすトラブルメーカーだったのである。 神はなぜそんな悪さを促す悪魔を人間界にもたらしたのか。それは何もしなければ人間はすぐに無為と休息の中に沈潜し、怠け者になってしまうからだ。悪を適当に配置することで、「善人になるよう努力せよ」という役割を悪魔に持たせているのである。悪とは人間に努力を促すものなのである。従って、悪いことに直面しても何も努力しない人はますます悪くなり悲惨な人生を送ることになってしまう。 悪とは人間に与えられた躓きの石なのである。乗り越えるべく神が与えた試練である。善はそうした悪の試練を努力で乗り越えて来た人にだけ与えられるものである。ゲーテはそう考えているとすると、人生で出会う数々の悪いこともさほど深刻に考えなくてすみそうである。
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