ヘルマン・ヘッセのシッダールダは私がまだ10代だった頃に読んだ懐かしい小説である。しかし、当時名作と評判になっていた割には、読んでみてそれほどの感銘を受けた記憶がない。語られる内容が人生の究極的な悟りのことだから、すごいことなのだろうが、それは若かった私の理解の範囲を越えていた。「フーン、悟りの世界ってこんなものなのか」という程度の漠然とした感想しか受けなかったのである。
しかし、人生を総括できる年齢にまで達した今の私なら、昔と違った印象を得るかもしれないと、先日もう一度読み返してみた。残念なことに再読しても昔の記憶がなかなかよみがえってこず、随所に散らばっているはずの私のかすかな記憶の痕跡さえ見つけられなかった。しかし、それだからこそ私はまるで初めて読むような新鮮な思いでヘッセの考える人生の究極の意味を自分なりに理解することができたつもりある。 そしてシッダールダは必死に修行を続け、真理を見つけようとする。だが、それはどうしても見つけられない。それどころか60歳にもなる先輩修行僧でも迷いの中をもがいているのを見て、一緒に修行に出た親友のゴーヴィンダに、ああした先輩たちが「70歳になり、80歳になっても、彼らが涅槃に達することはないだろう」と懐疑的なことを言いはじめる。ゴーヴィンダは「あれほど多くのひたむきに励む人々のうち、誰一人も道の中の道を見いだせないなどということがあり得るだろうか」と反論するが、失望したシッダールダの気持ちを止めることはできない。 そして沙門を諦めたシッダールダとゴーヴィンダは舎衛城の町で世尊仏陀と出会う。仏陀、すなわち釈迦の本名はガウタマ・シッダールダである。ヘッセが主人公のバラモンをシッダールダと名付けたのは彼が釈迦と同じく究極的な悟りの世界への道を歩む人と見なしているからである。 釈迦はシッダールダの前に完璧なまでの姿で現れる。親友のゴーヴィンダはそれに感銘して釈迦に帰依する決心をする。しかし、シッダールダは釈迦が涅槃に達したのは分かったが、それは釈迦自身の「悟りの体験」があったからで、自身はそうした体験を経ていない。だから、自らが涅槃に到達するための旅に出ると釈迦に言って友とも離れて町に戻っていく。 だが、町に戻った彼は激変する。遊女・カマラーと知り合い、商人として成功の道を歩み始め、大金持ちになるのだ。しかし、そのことが彼の精神を蝕む。彼は愛欲に溺れ、金、金とあくなき欲望を追求するが、ある日その醜さに耐えられなくなって突然町を飛び出す。財産も愛人であるカマラーも捨てて、みすぼらしい乞食の身で森の中に入っていく。そして何日も食事をしていない彼は大きな河のほとりで行き倒れになる。だが朦朧とした意識の中で河が語りかけてくる言葉を聞いて、忽然と悟りを得るのである。河は次のように語っている。 「世界は不完全なものではない。徐々に完全なものになりつつあるのではない。世界はあらゆる瞬間において完全なのだ。・・・一切の存在した生命を同時に見られるときがある。そのときこの世にあるすべてのものはすべて善であり、すべて完全であり、すべて梵なのだ」(臨川書店発行、ヘルマン・ヘッセ全集12巻シッダールダ P.112)と。世の中は不幸なことばかり続く出来損ないのひどい所のように見えるが、実は世界は完璧で調和に満ちている。だが、煩悩に囚われた人にはその真理が見えない。それをシッダールダはついに分かったのだ。彼はここにおいて釈迦と同じ涅槃に到達するのである。 シッダールダはこの世のあらゆる真理を河が語る言葉から理解する。そして「知識は伝えることはできるけど、叡智は伝えることができない。それは見いだすことができるし、それを生きることはできる」と禅宗がいう悟りのようなことを言い出す。そして「あらゆる真理はその反対も同様に真理である、ということだ。つまり、真理というものはそれが一面的である場合にのみ表現することができる言葉につつまれ得るのだ。思想で考えられ、言葉で表現できるものはすべて全体を欠き、完全を欠き、全一を欠いている」と、まさに西田幾多郎が言う絶対矛盾的自己同一の位置にまで上り詰めるのである。言葉はどんなに優れていても真理の一面しか示せない。言葉で真理は語り得ないのだ。真理はただ涅槃を自ら体験するしか知り得ないのである。 この小説の冒頭には「敬愛する友ロマン・ロランに捧げる」とある。ここまで読んだとき、なぜヘッセがロランにシッダールダを捧げたかが分かった。それはロランの「魅せられたる魂」の中で語られるアンネット・リビエールの思想、すなわち人生は河のように流れて、最後は母なる海に流れ着くという思想と呼応しているからだ。
by Weltgeist
| 2015-06-19 23:59
|
カテゴリ
以前の記事
2016年 05月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
最新のコメント
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||