これまで見てきた道元の禅は、自己を追究することで、身心脱落して「無」の境地を目指すということだった。「無」とは、自分が座禅で座っていることさえ意識しない、本当の意味での無の境地である。そこでは自分が無になろうという意識さえなくなる徹底的な無である。無心に生きる人は生きていることにも一切拘泥しない。生きるという意志さえ無い無心な状態だから、生きることを止めさせようとする「死」さえ恐れることではなくなるのである。
ある禅僧が皇帝に反抗して打ち首になったとき、「我頭上に白刃を臨みても、なお春風が過ぎるがごとし」と言ったという。打ち首で刀が首に打ち下ろされても、ただ春のそよ風が過ぎただけだ、という心境こそ無心に生きる姿であろう。彼は生を死するように生き、死を生するように死すのである。だが、生きるでもなく生き、死するでもなく死す人生こそ、逆説的には最も充実した人生なのだ。ここにおいては人間が最も人間らしく生きる全機の世界が開けてくるのである。 禅で言う「無」とは人間の煩悩( ここでは自我と言ってもいい )を捨て去った身心脱落の状態であり、それは人間の頭では理解出来ないものである。頭で考えたことはそこに必ず煩悩があるからだ。考える、あるいは見る主体そのものの否定、それが無であり、身心脱落である。 道元がいうのはそうしたいわば人間の常識的思考ではとらえられない無の場所である。世界を見る自分がもし全くの白地、なんの曇りもない状態とすれば、世界はありのままに自分に見えてくるはずである。それは鏡を想定すれば分かる。鏡は曇りが無ければ外の世界をそのまま写してくれるからだ。ある高祖が悟りを開いたとき、悟りとは「本来無一物、何処に塵芥あらん」と言ったという。これに対して道元は面白いことを言っている。「塵は塵の光を発して鏡に写る。鏡は鏡の光を発して塵に写る。万象のすべてはそれ自身光を発して鏡に写る。・・鏡は空間的なもののすべてを写すのである」正法眼蔵 第十九・古鏡、石井恭二現代訳第二分巻 PP.64-65 と言っている。本来無一物たる曇りのない心ならたとえ塵芥のようなものでも、はっきりとそこに写し取れる。いや、すべての物事が明白な姿で写し取れるのである。 しかし、それは単に対象を写すだけの受動的なものではない。道元はさらに悟りを開いた人の心を鏡にたとえて次のように言う。「鏡の裏は表であり、表は裏であり、表と裏がないのだ。表裏とも同じ像を写す。写す心と写る目は相似である。相似というのは、すべての人が普遍の存在であり、平等であることと同じである。・・・いまこの世に現前する諸々の因縁現象は、鏡を見る眼( 鏡に写っている眼が見る眼 )それを見る眼の間に起こる現象に相似である。( 同じように見ることが出来る )というのは我ではなく、誰でなく、これは”両人”が”両人”を見るのである。鏡を見る自己と鏡に写る自己の両人が相似なのだ。彼も我と言う。我も彼となるのだ」同、P.61 と。 身心脱落して無心になった人は万象を本来の姿で写す鏡のようでありながら、同時に写される万象そのもの(と一体)でもあることになる。彼も我もすべて同じ、万物との区別はあると同時にまた無くもあり、一体化、一如になっているのである。ここにおいてはすべてのことが多であると同時に一であり、すべてが一体化した一如の世界となるのである。これが道元が言う無の世界であり、悟りの境地である。 ところで、座禅をやっていていつも感じるのは「禅は宗教だろうか」という疑問だ。正法眼蔵には仏とか涅槃と言った仏教用語が出てくるが、道元の思想そのものは宗教というよりは、禅による徹底的な自己追究から得た真理会得の体験であり、それを何とか「煩悩におぼれている人」に教えようとして、只管打座を提唱している実践的救いの哲学ではないかと思えるのだ。 禅は自己集中によって「悟り」を得るものであって、そのバックボーンは宗教を超越している。禅そのものは宗教ではないと言っていいだろう。禅宗のお寺ではその宗派、あるいはお寺を守るために様々な決めごと、戒律、お経などがあるが、基本的にはそんなものなくても関係はないと思う。そもそも道元の思想で悟り、すなわち身心脱落は出家した坊さんの専売特許でもなければ、長く厳しい修行を経なければ得られないというものではない。それは修行の厳しさや長短に関係なく、突然やってくるのである。悟りに達しなかった僧が、庭の掃除をしていて石が竹に当たる音を聞いて突然悟りを得たこともある。(正法眼蔵・渓声山色) また、禅など全く知らない門前の小僧が、忽然と悟りをえたことも伝えられている。禅とはそうしたものなのだ。 禅宗のお寺には厳しい作法がある。しかし、道元の教えに従って行う禅修行の作法があるにしても、その本質は宗教の儀式ではなく、ひたすら参禅すること、これに尽きるのである。それはキリスト教におけるパウロの思想、すなわち人と神がダイレクトに向き合うことが第一であり、律法(戒律)を守ることではないという考え方と同じと小生は解している。小生が禅寺に通っていたとき、若い雲水の中には厳しい戒律を守るほど悟りに近づくと思っている人がいた。しかし、そうしたことは宗教の形骸化したものであり、本質はいかに身心脱落するかである。パウロが「救いは律法を守る行いではなく、ただ神を信じる信仰による」( ローマ書3-28 )と言ったのと同じで、ひたすら只管打座に没頭するのが道元の精神だと思っている。 道元の正法眼蔵と無について最初から読みたい人はこちらをクリックしてください。無とはなんぞや、その2にジャンプします。 *「無とはなんぞや」は今回ひとまず、ここで中断して、次は、西田哲学の「無」にとりかからせていただきます。
by weltgeist
| 2010-02-12 23:59
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